もう一つ心を引いたところは、「巴里に死す」がきわめて主観の強い小説だということだ。それを読んでいると、トルストイや、ドストエフスキイなどのロシアの作家の小説がなんとなく頭に浮かんでくる。と言うのは、トルストイもドストエフスキイもいつもその小説の登場人物に託して自分のアイデアを読者の頭に叩き込もうとしている作家である。特に、ドストエフスキイの小説の中の対話、ダイアローグはすべて、ダイアローグよりも、著者自身の内面的なモノローグにほかならない。芹沢光治良もそれと同じような方法を使ったと思われてならない。(中略)
要するに、小説が個人的な要素、現実的な要素、虚構としての要素が絡み合っているのは当たり前だが、どの小説を見ても、作者は結局自分のことばかりを書いているのではないだろうか。芹沢光治良も例外ではない。
(中略)
「巴里に死す」を読んでいると、何回も、女性の心理がいかに正確に描写されているかに驚かずにいられなかった。今まで、そんなに鋭く、厳密に女性の心理を見抜いて、描写できるのは、トルストイしかいないと思っていたのである。正直にいえば、伸子の手記を読み始めた時に、筆者、芹沢光治良は奥さんの日記を使ったのではないかとまで思った。(中略)しかし、芹沢光治良の生涯について読んでみると、結核にかかったのは、奥さんではなく、芹沢自身だったということを知って、致命的な病気になった悩みやスイスでの結核との戦いだけは、筆者の経験したことが分かってきた。というと、芹沢光治良は伸子という登場人物に託して、奥さんの感情や考えだけでなく、自分自身の感情と考えをも表現したことになる。
ところで、芹沢光治良は奥さんに対しても、ご自分に対してもなんと厳しかったのだろう、なんと最大限の要求をなさる方なのだろう。人間は弱点をたくさん持っているものだ。それにしても芹沢光治良は人間のどんなに当たり前の弱点をも、どんなに偶然的な過失をも大目に見ることが絶対できない。その点から見てもまったくトルストイと同じである。
(タチアナ・デリューシナ「巴里に死す」p131『国文学解釈と鑑賞
<<特集>> 芹沢光治良――世界に発信する福音としての文学』(至文堂)
2006年5月2日)