― しあわせへの道しるべ ―

芹沢光治良の文学の世界を ささやかながら ご案内いたします。新本、古本、関連資料も提供いたします。

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Serizawa Kojiro

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光治良文学――備忘録

 
創作のもと
「人間の運命」のモデルについて
<神様からのあずかりもの> 祖母の子供観
「伯父さんの書斎で見たジード」『背徳者』の感動
「シャルドンヌによせて」 小説のスティルについて
「私の小説勉強」 作家になるまでの半生の素描、小自伝
「創作ノート」 作家論(自己の発展)
「わが意図」 創作とは神の真似
「小説のモラル」 作家論(脱皮する本体)・作品論

「ルポルタージュについて」 アンドレ・ジードのコンゴ紀行

「人間の裸体」 ミケランジェロの囚人の群像
「青春はなかった」 毎日青春をもつ
「迎春」 修道院へ行く覚悟、義父との不幸、死を賭して作家へ
「職場にある教え子」 代用教員のころ、「眠られぬ夜」について
「春宵独語」 シミアン博士の文学観、マリ・ベルのこと
「捨て犬」 生きものについて

「浅間山に向っ 創作と健康

「作家の秘密」 作家論
「なぜ小説を書くか」 文学論・作家論
「現代日本文学」 読者論・文学論・作家論
「ノエルの祭」 実父観 → 養子考
「親と子の関係について」 実父と養父
「新年」 質素なこと
<金江夫人と光治良作品>
<文学論 タチアナ・デリューシナ氏による>
「童 心」 あだ名は柏餅
「男子の愛情」 女性観
「小説の面白さ」
正 義 感

「ヨーロッパの表情」―日本人としての生き方―「遠ざかった明日」はなお遠い!?

「結婚新書」 結婚観・実母観

「戦争」と「神」に悩む西欧 ―― サルトルの「神と悪魔」をみて
母として、いや、人間として
我が宗教 信仰観、実父観
   

 

 

「小説のモラル」

『芹沢光治良文学館(11) エッセイ――文学と人生』
p90(昭和13年)

 

作家論(脱皮する本体)・作品論――

それと同時に、私はある雑誌の懸賞小説の銓衡(せんこう)委員にあげられて沢山の応募作品を恰度この繁忙のなかに読んでおりますが、ここでもまた、ふだん考えていたことを実証せられているような気がします。というのは、均一な学校教育が普及し、普通に誰でも文学の表現技術を修得し得るような状態ですから、体験さえあれば、いつか小説家になれそうに、常識的には考えられますが、なかなかそうではないということす。応募者の履歴によりますと、ありとあらゆる階級の者があり、それこそ、砂の中の宝石を探すような楽しみで熱心に読んでみますが、よい作品をひろうこともできなささそうですし、それよりよい作家になれそうな人を発見することは難しいようです。それにつけても、私は文学の困難を思います。

小説家には、勿論体験も必要でしょう。そして、体験を書くことは易しいことです。懸賞小説の殆ど大部分が、体験談であるのをみても、それが解ります。しかし体験談がそのまま小説となるものではありません。特に私小説の根強く発達した日本では、このことが忘れられ勝ちです。体験談というのは、脱殻のようなもので、その本人には貴い記念物でしょうが、他人にとっては、三文の価値のない場合が多いようです。他人の興味があり、価値ありとするのは、脱皮する本体です。その本体のない脱殻ばかりの私小説が多かったので、一時私小説が排斥せられたのでしょう。その体験談を脱殻にするか、又は、本体にするかは、作者の精神によるようです。

小説も他の芸術とともに人生や社会の飾りであり、贅沢品である要素を持っています。それ故、社会が人生の装飾をのみ心がけていられるような、華やかな時代には、小説も其点盛んに求められ、発達しました。しかし小説は贅沢品である他に、もっと人生や社会の根幹に関係を持つところの性格があり、その点で、小説がいつもモラルの問題と切り離されないのです。この小説の性格が、或時は小説をして社会や人生のある批判者とし、社会の良心的な目と感じさせるのであり、又、脱殻から本体を区別させる精神が要求される所以でもあります。小説が単なる人生の装飾であれば、芸ごとの好きな人々が小説を愛しない筈はありませんが、装飾として芸ごとをしている人々には、社会の良心のような小説の性格が、目障りであり、気に入らないのです。そして、その性格のない読みものを――大衆小説を小説だとして読んで満足しています。生活のなかの贅沢品として。確かに情けないことです。この小説の装飾たる性格も、その時代の文化と密接な関係のあることは、いうまでもありません。

(中略)

小説家は書くことで行為し、作品ができあがったことに依って、作者の精神や肉体に糟が残るようなものだろうと考えられます。特に私小説の場合には、小説を書くことは脱皮することであり、一種の修行であり、その時の脱殻は作者の心に残り、小説自体は脱皮した後の自我でなければなりません。小説が作者の行動した後の脱殻であってはならないことです。私は勿論恋愛をしてはいけないの、なんのと云うのではありません。この小説の中に、逃避しないではいられないまことが、作者の意図の如くでていないのを残念に思うばかりです。そののっぴきならない恋愛の中に、血で描いたような精神が、脈打たないのが残念です。それでなければ、世間によくある一つのトラブルであり、トラブルとしては簡単で面白くもないということになります。(掲載者註:岡田三郎「秋」(新潮社)を評して)

(中略)

良心の目のような性格と贅沢品たる性格とは、なかなか同居が難しいものです。いざ小説を書こうと尤もらしい顔をしたからとて、また、小説のなかに刺身のつまのように尤もらしいことを一寸加味したからとて、作品にそうした性格が附与せられるものでもなく、それは作家の日々に積んだ精神の反映のようなものです。従って、小説再建、読者獲得のために、再び生活の贅沢品たる小説を書くからとて、己を堕落させることでそれをしてはならない訳です。

(2005.09.17)

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