正義感
『芹沢光治良文学館(11)』
エッセイ 文学と人生 「文芸時評」
p322〜
1937〜8年(昭和12〜3)ごろ
文芸時評について、芹沢光治良はつぎのように言う。
実際、私達小説家も作品を発表して、作者の意図も作品の内容も、批評家側の欠点のために理解せられずに、時に「やっつけられて」しまう場合が少なくない。(中略)従って近頃のように批評の難しい時代に、かような状態のもとで作品評をするのには、その小説を己の作品であるとして、反省の材料にし、己に笞(むち)をあてる以外に時評家の救われる道もない。
伊藤永之介氏(明治36(1903)〜昭和34(1959)年)の「梟」(文學界)については「複雑な感動をのこす力作である」としており、その感動のみなもとを次のように総括する。
貧農の悲惨な生活については、農地の問題、小作料の問題、農業自体、経済的に引合わないために生ずる困難等、社会的見地からも、経済的見地からも、あらゆる角度から観察せられて知っているつもりの者でも、この梟に描かれた農民の不幸を見て、大袈裟にいえばこんなことが日本にあるのかと、ただ呆れたり驚くような部分がある。
そして、「読んで実に面白い。その読んで面白いことが、この小説では感動を複雑にし、割切れなくしておかしなことだがかえって小説の不幸を思わせる」とし、
光治良がいきついたひとつの結論に、彼の正義感、もしくは文学精神を垣間見ることができる。
この小説は解体すればコンゴ紀行(編者註:アンドレ・ジード)にまさる感動を与える材料のみであるが、小説自体には、作者がこの農民の不幸に驚き憤り、農民に代ってうったえる精神があるのか不審を抱かせるものがただよっている。コンゴ紀行はずっと余裕のある書き方をしているのに、作者の驚きや憤りがそのまま読者に伝わり、書かれていない黒人の不幸や愛情をさえ感ずるが、梟にあっては、ありったけ詰込んだ材料の不幸に面を暗くしても作者の魂のあり場が感応しない惧がある。それどころか、部落の人々が酒役人の姿をみつけてあわてふためく鮮やかな描写や苦境をうったえる婦達を前に冗談をいう呑気な警官等、恐らく作者の意図に反して、ユウモラスな光景に化し、作者の精神まで冷酷な微笑をしているような錯覚におとしそうだ、それが残念である。一体、どうした訳か、熾烈な作者の精神が小説を描く(強調原文)ことにまけたのか、小説作法に誤謬があるのか。(お峰を中心に野蛮な三角関係を物語りとして急ぐ代りに、罰金の重圧にかかわらず濁酒を密造しなければいられない現実の不幸をもっと見詰めるべきではないかしら)兎に角、かかる小説を作者が農民に代ってうったえる意図がなくして万一創造し、たのしむならば、こうした不幸を現実からのぞき得ないことよりも人生の不幸である。その点、作者は意図と効果と小説とについて熟考すべきであろう。
(2006.11.25)
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