創作の【もと】
敗戦後の食料難のとき、沓掛の小百姓である平賀老人が野菜作りを指南してくれました。
老人はよく言った。
「旦那さん、何事ももとが大切です。畑をつくるのには、先ず土をつくるです」
「野菜は人間よりも正直です。目をかければ、それだけちゃんとむくいてくれます。旦那さん、畑で野菜をつくるならば、野菜を可愛がってやって下さい。可愛がるというのは、いやなことでを何でも、こっちでしてやるのです。下肥も、旦那さんが自分でかけてやるですな。虫もとってやるですな。可愛がっても人間は裏切ることもあるが、野菜は決して裏切りません」
九月になって、南瓜を二十個以上収穫して、縁側にならべた時、老人がやって来て、大変喜んで言った。
「旦那さん、文章をつくるのも、丹精をこめなければ、よくできないしょう? 南瓜は正直で、旦那さんの丹精にちゃんとこたえたですなあ――」
ここから、光治良先生は何を考えたか?
しかし小説を書くことについて、何がそのもとであるだろうか。私は小説を書きはじめた頃、小説家の仕事は、人間を創ったり、情景をつくったりする点で創造主のような仕事であると考えたことがある。また、文学は言葉なき神の意思に、言葉を与えることだ、とも考えたことがある。そして、今でもその二つの考え方は、あやまりでないと思っている。
小説家というものは、神に代って作品を書くのだと、大袈裟に考えたこともある。神の代りに創作するというのは、原稿用紙に向った時だけ、もっともらしく行ないすましてもだめで、日常生活においても常時行ないすましていなければならないと、本気に考えて、それを実行したこともある。
こんな風に、小説家の仕事と結びつけて神を考えたが、その神とか、創造主とかいうのはキリスト教の神でも、日本の多くの宗教のいう神でもなかった。私が心のうちに漠然と抱いている神、言ってみれば、宇宙の向こうに存在して、あらゆる法則の根本をなす巨大な人格のようなものだったが……
「創作は疲れるものだ」p53
『芹沢光治良文学館(12) エッセイ――
こころの広場』【文学者の運命】』
初出『ノーベル賞文学全集18 月報11』昭和46年(1971年)8月
書斎のなかに大理石の素材を持ち込む
また、こうも言っています。
他人には見えないかもしれないが、私は書斎のなかで、独りせっせと大理石の石像をつくったり、伽藍を建てたりしているのだ。
これは、ともすると小説家は万年筆と原稿用紙さえあればかんたんに仕事ができる、と相当な知識人でさえそのように軽々しく考えていることが発言のひとつのきっかけでもあるようです。
「大理石」という喩えがでてくるのは、つぎのようなところからです。
リルケはロダンの彫刻の美しさに魅せられて、フランスに行って、ロダンのかたわらにあって、その偉大な芸術の秘密を学びとりたい一念から、つてを求めて秘書になって、ともに暮した。そして、ロダンのもとで知ったのは、ロダンがどんな労働者よりも勤勉に、大理石や土ととりくんで働き、休む暇も惜しいように、自ら励んでいることであった。
そして、つぎのように言うのです(原文の順序は逆ですが、興味をもたれる方は是非原文で味わってください!)。
実は、小説家である私は、書斎のなかに、目には見えないが、巨大な大理石の塊をはこび入れて、のみを持って、その大理石に、自分の想像するものを、こつこと刻んでいるのである。大理石に向って、四六時中、格闘しているのである。私以外の人には、その大理石の素材が見えないだけである。従って、私が大理石をこつこつ刻んでいる音が、残念ながら、聞こえないのである。私が大理石の粉を浴びて、苦闘している姿も、見えないのである。
また、
私が書斎に大理石の塊を入れて、それに向かって、私の精神にある像をきざもうと、苦闘していると書いたのは、小説を創作することが、大理石に像をきざむと同様に、一心不乱な仕事だと言いたいからだった。
とも。
「書斎のなかに大理石の素材を持ち込んでいるのだが――」p57
『芹沢光治良文学館(12) エッセイ――
こころの広場』【文学者の運命】』
初出『ノーベル賞文学全集15 月報12』昭和46年(1971年)9月
前段の「創作は疲れるものだ」では、百姓にたとえて「田を耕すのも、文章をつくるのも、同じだ」と言っています。
後年では、自らを「原稿用紙のマス目を一つひとつ耕す小作人」とよく言っています。
どんな言葉で耕していたか?
フランスの小学生から大学生まで、作文教育でたたきこまれるという、デカルト式な論理的であること、明白であること、誰にも理解できるように努力することの三条件を基礎にして、私も自分の日本文をつくるように、再び努力することにした。ここから自分の文体をつくりあげようとした。
光治良文学の背景
で、その小作人は何を目指したか?
フランスの西田幾多郎を求めれば、H・ベルグソンだろうか。ベルグソンの哲学は、内容は深くて難解であるが、言葉は難解ではない。ベルグソンは哲学者や仲間のために、哲学するのではなく、一般のフランス人のために哲学するので、難解な内容を、理解してもらうために、解り易い言葉も使い、面白い引例をして、苦心している。カレッジ・デュ・フランスで講義した時など、毎日市民や街の主婦などが講堂につめかけて聴講するので、いつも私は一時間も前に行って席をとった。聴講者が講堂にあふれて、廊下や運動場にもはみ出した。拡声器のような便利なものがない頃のこととて、教室のあらゆる窓の外側に、梯子をかけて、それに聴講者がすずなりになるような状態の日が多かった。
街の主婦もベルグソンの哲学から、生きる支柱を得ていたからだが、ベルグソンの哲学は当時の労働運動にも大きな影響を与えた、政治家にも、芸術家にも、あらゆる階層の人々に影響を与えた。
それにひきかえ、西田幾多郎の哲学は、日本の労働運動や政治家や芸術家にどんな影響を与えたか。絶無といっていい。最も解りやすい「善の研究」を、大正期から昭和の中頃まで、日本の大学生は競って必死に読んだものだが、そして、皆解ったような顔をしたが、ほとんど影響を受けた様子はなかった。
これは哲学ばかりでなく、文学でも同じようだが、私は戦争末期に、そのことばかり考えていた。
× × ×
そして、生死を前にした、青春の心に何も語りかけない哲学とは、一体どうしたものだろうかと、疑い、考えこんだことを覚えている。
× × ×
哲学ばかりでなく、日本では、あらゆる学問が、それを研究する仲間のために存在するような表現をもっている。換言すれば、研究者以外の者にもりかいしてもらえるように、表現や文章について努力も苦心もしていない。文章や表現に努力して、一般の人にも解るようにすることは、その学問を低俗なものにすると怖れているかのようである。
× × ×
敗戦後、「東京裁判」が行なわれていた間、毎日、新聞記事を注意深く読んでいて、一つのことに気がついて驚いたことがある――陛下の側近者には、側近者の言葉があり、陸軍には陸軍の言葉があり、海軍には海軍の言葉があり、政治家には政治家の言葉があり、国民には国民の言葉があって、戦争をしないという意(こころ)が、たがいに通じあわないために、いつの間にか大戦争になってしまったという大悲劇を、私は見たような気がして、呆然としたのだった。
「文章をさがして」p65
「私は孤独だった」p69
『芹沢光治良文学館(12) エッセイ――
こころの広場』【文学者の運命】』
初出:それぞれ
『ノーベル賞文学全集14 月報14』昭和46年(1971年)11月
『ノーベル賞文学全集17 月報15』昭和46年(1971年)12月
(2008.11.24)
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