何もしないのに三十歳台がもう終るという不安に、ふと滅入ることがある。そんな時必ず、二十歳台の終りから三十歳台にかけて、外国に遊んだ数年間が、自分の歴史に白紙で残っているように感じられて、その長い期間が、私の生活の流れの前後に無関係な一齣のように思われる。何があったか顧みると、夢のように、とりとめのない風景が先ず浮かんで来る。
ユラ山脈の高原でフランスの或る新進作家と別れた春の景色。アルプスを仰ぎ、レマン湖を瞰て療養していたエハガキのような景色。花をつけたマロニエの下で、キャフェのテラスに何時間も腰をおろしていた通俗的な景色。すると、その風景に思い出がついて出る。ユラの高原は牧場であるが(中略)
それでいて、私の今日に強い影響を残している筈の、シミアン博士の研究室の模様、闘病生活の苦労、様々な芸術や芸術家から受けた感銘等が、どうしても蘇って来ない。例えば博士の研究室では、およそ文学などに縁の遠い実証的な経済学を、毎日統計を基礎に研究していたのだが、ある日、博士は、社会現象の実験でできないことを、実証社会学の発達の遅い原因に挙げてから、文学においてのみ、社会現象を実験として取扱えるものであることを説いたことがある。さて、それをどう説明したものであったか、どんな日の説明であったか、なかなか思い出せない。しかし、景色に関聯したことであればその日の草原の色、空模様から、あの若い作家の表情、言葉の調子まで一つとして思い出せないものはない。
私は従って、頭の中に風景画を蒐集するために、あの数年間を空費したようにも考えられて腹立たしくもなり、他人より数年速く、四十台を迎えそうな不安と心忙しさに襲われる。それから逃れるために、私は努めて頭にある風景画を想像の壁にかけないことにしている。欧州に遊んだのは夢であった、恰度わが円相場がもう再び四十五ドルにはならないように、そう思って、外国生活の期間を白紙であったと思い込もうとしている。そんな近頃、巴里の記憶から、珍しく一人の美人の肖像画が、朝夕目の前に持ち出されて弱ってしまった。
(中略)この美人をめぐった色々の記念が、牡丹の花の如く蘇り開いて、悩ましい。そして、もう一度巴里に行きたい、そう久し振りに嘆息をする程、巴里の過去の生活が風景画としてではなく、ジクザクと私に働きかけて来るのである。
シミアン博士の研究室は、週に二回、月曜日と水曜日との午後出席すればよかった。普段の日も勿論、研究室に附属の図書館や他の図書館に出掛けて、与えられた題目の材料を蒐集したり、調査したりしなければならなかったが、これは時々怠っても、その結果が直ちに現れなかったから、私の関心はややもすれば他にそれた。文学、音楽、芝居、絵画と興味が多すぎた。それに、最初厄介になったのが、有名な「二世界誌」の編輯をしていた批評家、アンドレ・ベレソール氏の家だったことがよくなかったのかも知れない。
私は芝居を見るにしても、クラシックから見なければ満足できず、そのために、演劇の博物館という国立劇場に、足繁くかよった。そこで、マリ・ベルの若さ、美しさ、巧みさにすっかり掴まってしまった。……