――近頃、雑誌に貴方のお名前を拝見し、お作も拝読しておりますが、若しや、大正五年に一年間、沼津小学校で教えを受けた先生ではないでしょうか。尋常四年の乙組を担任せられた先生も芹沢先生と申しましたし、一高に入学して、先生をお辞めになったことなど考えますと、どうも私の恩師のような気持がして……
と、いうような、手紙を昨年の暮れ、北支那の警備をしているという兵隊Aからもらった。
(中略)
私は四年乙組を受持ったが、生徒は五十人以上あった。月給は九円。中学校出の代用教員は普通八円であるが、君には特別に九円支給するという校長の話だった。
授業は唱歌と手工とを除いて、全科目を受持った。唱歌と手工の時間は、四年甲組の習字を教えた。各科目とも、教師用の虎の巻があって、毎朝学校へ行ってからこれを真面目に覚えて、生徒に理解させればよかったので、そうむずかしい仕事ではなかった。特に私は子供好きであるし、その頃「白樺」の愛読者で、「白樺」の精神をわがものにしようと努力している頃のこととて、教壇に暫く経つことも、一つの使命を果たすように喜んでいたが、ただ、体操だけは苦手だった。
(中略)
その風変りな先生の影響で、私のクラスが、最も上級学校へ入学者も多く、東京で活動している者も多いのだと、感謝していたが、私は、それこそ、心に汗をかく思いがした。
(中略)
これ等の手紙には、小説家である旧師への素朴な信頼が、あふれているが、私も次第に慰問袋や慰問分をおくったりするだけでは、足りない気持になった。この人々が凱旋した日、恥じないで会えるようにしたいと、私も素朴な感情を抱くのである。
昨年の初夏の候に、二ヶ月占拠地を歩き廻って、支那事変とは何か、戦争はどんなものか、兵隊の苦闘がどんなかを、観たつもりであるが、小説家としては、創作する以外に真の体験はあり得ないし、凱旋する教え子に会う日、共感を持って話を聞き、批判できるためにも、戦争に関する小説を一篇、創作したいと考えた。戦争を描くといっても、私には戦争に参加する心理しか、この場合に、興味はなかった。然し、兵役に関係もなく、また、実戦に参加しない私には、いろいろの予備的な知識の欠除に困窮した。そんな時に偶然、輜重兵の傷病兵である一高の後輩に会い、多くの知識を授けられた。
そこで、私は何晩も眠られない夜を持ったほどの苦心をして、小説「眠られぬ夜」を百枚ばかり書上げた。それは精神の上では、自ら輜重兵になる苦闘であった。小説にする努力は一切抜いて、自分を輜重兵におくことに努力をした。私は書き上げた小説を、戦場にある教え子が読んでも、安心していられる自信を持った。