― しあわせへの道しるべ ―

芹沢光治良の文学の世界を ささやかながら ご案内いたします。新本、古本、関連資料も提供いたします。

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光治良文学――備忘録

 
創作のもと
「人間の運命」のモデルについて
<神様からのあずかりもの> 祖母の子供観
「伯父さんの書斎で見たジード」『背徳者』の感動
「シャルドンヌによせて」 小説のスティルについて
「私の小説勉強」 作家になるまでの半生の素描、小自伝
「創作ノート」 作家論(自己の発展)
「わが意図」 創作とは神の真似
「小説のモラル」 作家論(脱皮する本体)・作品論

「ルポルタージュについて」 アンドレ・ジードのコンゴ紀行

「人間の裸体」 ミケランジェロの囚人の群像
「青春はなかった」 毎日青春をもつ
「迎春」 修道院へ行く覚悟、義父との不幸、死を賭して作家へ
「職場にある教え子」 代用教員のころ、「眠られぬ夜」について
「春宵独語」 シミアン博士の文学観、マリ・ベルのこと
「捨て犬」 生きものについて

「浅間山に向っ 創作と健康

「作家の秘密」 作家論
「なぜ小説を書くか」 文学論・作家論
「現代日本文学」 読者論・文学論・作家論
「ノエルの祭」 実父観 → 養子考
「親と子の関係について」 実父と養父
「新年」 質素なこと
<金江夫人と光治良作品>
<文学論 タチアナ・デリューシナ氏による>
「童 心」 あだ名は柏餅
「男子の愛情」 女性観
「小説の面白さ」
正 義 感

「ヨーロッパの表情」―日本人としての生き方―「遠ざかった明日」はなお遠い!?

「結婚新書」 結婚観・実母観

「戦争」と「神」に悩む西欧 ―― サルトルの「神と悪魔」をみて
母として、いや、人間として
我が宗教 信仰観、実父観
   

 

 

「浅間山に向って」

『芹沢光治良文学館(11) エッセイ――文学と人生』
p122(昭和13
年)

 

創作と健康――

(前略)

ヨーロッパのたびで胸の病気に倒れる日まで、健康とか、身体とかについては、少なくも考えたこともなく、全く無頓着だった。まして、空気の軽重を感ずるなど思いもよらなかったが、人間の感覚は実に不思議なもので一種の修練をつめば、奇蹟のようなものをも完納するらしく、スイスの高山療養所で、永く大空の中に安静にして闘病している間に、私は自分の身体のどこかに、晴雨計や湿度計のあるのを感得した。われわれの祖先がただ本能をたよりに生存していた太古には、鶏が夜明を感じたり、小鳥が季節を予知したように、人間の感覚もそうした昨日を具備していたのかも知れない。高山療養所で暫く暮らしていると、本能か感覚かのそうした部分がめざめるのであろう。大抵の者が、天候の変化を身体に受けるように予感するほどになる。晴雨はもちろん、霧の来ること、雷の近づくことまでが、身体に響いてわかるようになる。まして、空気の重い軽いを感ずるなど易しいのだが―― (中略) そして、八百米かそこらの高原にいても、海岸に産まれて育った身体の細胞組織が、異常な刺激を受けて異常の活動をするのであろうか、健康者のようになる。物の感じ方までが、健康者と同じになるようだ。

健康になると、夜遅くまでかかって小説を書くことなどしていられない。仕事とか勉強とかは、勿論、能率があがって、素晴らしくできる、読書も翻訳も正確に、そして速やかにできるが、小説はかけない。小説は自己表現の一形式であろうが、健康になると、原稿用紙のますを一つ一つうめているのが、まどろっこく、手ぬるくて、我慢できなくなって、他に、もっと直接な自己表現の手段が欲しくなるのだろう。手取り早く言えば、体を動かして自己表現したくなる。運動もできたらしたくなる。

(中略)

今年は馬に乗らないことにした。外へあふれるように表現したくなるものを、その勢に委せて、運動などで発散してしまうのは、秋になって肉体的に疲れが出る他に、惜しい気がする。内へ内へとおさえて、たくわえておこうと思う。そして、大作をするように想を練るのには、沢山な散歩道が縦横に走っているし、今年は又、浅間山が実に見事な爆煙を見せてくれる。この爆発の壮観さやその他軽井沢風景は、絵葉書のように誰かが描写してくれるだろう。

(2005.10.22)

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