― しあわせへの道しるべ ―

芹沢光治良の文学の世界を ささやかながら ご案内いたします。新本、古本、関連資料も提供いたします。

▼ 当ページの内容 見出し部
左記指定項目の詳細部
Serizawa Kojiro

 芹沢光治良文学読書会 ―― メインサイトへ

-

サブサイト
光治良文学――備忘録

 
創作のもと
「人間の運命」のモデルについて
<神様からのあずかりもの> 祖母の子供観
「伯父さんの書斎で見たジード」『背徳者』の感動
「シャルドンヌによせて」 小説のスティルについて
「私の小説勉強」 作家になるまでの半生の素描、小自伝
「創作ノート」 作家論(自己の発展)
「わが意図」 創作とは神の真似
「小説のモラル」 作家論(脱皮する本体)・作品論

「ルポルタージュについて」 アンドレ・ジードのコンゴ紀行

「人間の裸体」 ミケランジェロの囚人の群像
「青春はなかった」 毎日青春をもつ
「迎春」 修道院へ行く覚悟、義父との不幸、死を賭して作家へ
「職場にある教え子」 代用教員のころ、「眠られぬ夜」について
「春宵独語」 シミアン博士の文学観、マリ・ベルのこと
「捨て犬」 生きものについて

「浅間山に向っ 創作と健康

「作家の秘密」 作家論
「なぜ小説を書くか」 文学論・作家論
「現代日本文学」 読者論・文学論・作家論
「ノエルの祭」 実父観 → 養子考
「親と子の関係について」 実父と養父
「新年」 質素なこと
<金江夫人と光治良作品>
<文学論 タチアナ・デリューシナ氏による>
「童 心」 あだ名は柏餅
「男子の愛情」 女性観
「小説の面白さ」
正 義 感

「ヨーロッパの表情」―日本人としての生き方―「遠ざかった明日」はなお遠い!?

「結婚新書」 結婚観・実母観

「戦争」と「神」に悩む西欧 ―― サルトルの「神と悪魔」をみて
母として、いや、人間として
我が宗教 信仰観、実父観
   

 

 

「戦争」と「神」に悩む西欧
サルトルの「神と悪魔」をみて

 

『芹沢光治良文学館(11)』p428
(昭和27年5月 1952年)

 

原題は"Le Diable et le Bon Dieu"。日本語のタイトルは『悪魔と神』となっているようです(新潮 世界文学小辞典)。

 


◆ 人間生存、究極の矛盾!?

 

 

「戦争」と「神」に悩む西欧 ―― サルトルの「神と悪魔」をみては久しぶりに(?)活発に意見交換がなされた作品だった。

1951年(昭和26年)6月からパリ・アントアンヌ座(アントワーヌ座)で上演がはじまったサルトルの「神と悪魔」。2幕13場、4時間(20分ばかりの幕あいが一度あるきり)という「非常識と思われるほど長い」観念的な戯曲は、批評家からは概して悪評をうけたそうだが、10月上旬、芹沢光治良がパリを発つころもまだ満員をつづけていたという。

 

私は脚本が印刷されるのを待って九月初めに見た。読んで考えて行っても分からないような芝居だから。時代も場所も現実にはなくて明らかではないが、現代を象徴しているのはたしかた。ゲーツとドイツ人名を思わせる人物が主役で、他には主役らしいものがない。この人物は将軍で、敵国に攻め入り、町を焼きはらい、住民を虐殺するが、自国に帰ってから、自ら原始キリスト教徒のような神父となって、人々にキリスト教の教えのままに生きるように説く。人民は彼をわらい、その教に従わないが、自ら掌に奇蹟の傷をつくってから、人々の信頼を得て、国がおさまる。しかし、隣国から攻められ、武器なくして無抵抗であたることを説いて、そのために国を挙げて家は焼かれ、人々は殺され、彼とその愛人しか生き残らないような惨状になる。愛人は神を疑うが、彼は信ずることをやめない。敵は次々に隣国に侵入する。最後に、侵入された国は、彼にもう一度軍を指揮してもらうことを懇願する。悩んだ挙句、彼は武器をとって出征する――筋はだいたいこんなようだが(後略)

 

芹沢光治良にも「観念的」にうつったようであるが、つぎのように言っている。

 

舞台装置も演出も、ルイ・ジュベが最後にしたもので、象徴的で面白かったが、私はざん新な舞台よりも、ブランスールの見事な演技よりも、その観衆に感心し、心をうたれた。

 

そして、

 

周囲の観客は、その観念的な長い芝居を、身動きもしないで視入っているばかりでなく、主人公が最後に、神を求めて神のあらわれない悲しみに苦悩する長い退屈なセリフを、荒野でいう場面ではみな涙をぬぐい、すすりあげている者さえあった。それは全く思いがけないことで、私には驚きだった。

 

これは、「千フラン払って芝居を見れるような中年以上の者」だけの反応かとあやしんで、後日「二百フランで、三階の若い人々」のなかでも見物したが、「一階の客以上に注意をもって聴き入り、同じように目をぬらして感動していた。」

 

これこそ結局のところ観念的な理解にすぎないのかもしれないが、いわゆる「神」をもとめる切実さや、歴史的にも、地続きで迫りくる危険、危機をつねに身をもってひしひしと感じている人々にとっては、これはほんとうに身につまされるものではないだろうか? というところで、読書会でもおおよそ理解が一致したようだ。

そして、どちらかというと八百万の神に親しみがあるわれわれと、唯一絶対の神を信ずる人々とでは、「神」のとらえ方も大いに(あるいは微妙に?)ちがうのかもしれないが、グローバル、ボーダレス、ボーダーフリーといわれる今日、私たちにもけっして無縁なはなしではないような気がする。

武器をとることは、すなわち人をあやめることを意味するが、「無抵抗」という抵抗は、すなわち自身(および、その周辺)をあやめることである、というシビアな意見も提示され、いやはや、出口のない迷路のようだ。

 

ちなみに、芹沢光治良は、つぎのように締めくくっている。

 

西ヨーロッパの人々は、今日私達が想像もできないほど、神と戦争の問題について考え悩んでいる。サルトルの文学もカミュの文学も、それが分からなければ、ほんとうの意味がつかめないのではなかろうか。

 

(2007.08.26)

なにか <ひと言> メールする

芹沢光治良文学読書会

Serizawa Kojiro
.04)
▲ 当ページの内容 見出し部
左記指定項目の詳細部
 
※ リンクがはずれている箇所を発見されたら、ご一報くだされば幸いです。(2004.11.04)