― しあわせへの道しるべ ― | |
芹沢光治良の文学の世界を ささやかながら ご案内いたします。新本、古本、関連資料も提供いたします。 |
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Serizawa Kojiro
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『芹沢光治良文学館(11)』p428
「戦争」と「神」に悩む西欧 ―― サルトルの「神と悪魔」をみては久しぶりに(?)活発に意見交換がなされた作品だった。 1951年(昭和26年)6月からパリ・アントアンヌ座(アントワーヌ座)で上演がはじまったサルトルの「神と悪魔」。2幕13場、4時間(20分ばかりの幕あいが一度あるきり)という「非常識と思われるほど長い」観念的な戯曲は、批評家からは概して悪評をうけたそうだが、10月上旬、芹沢光治良がパリを発つころもまだ満員をつづけていたという。
芹沢光治良にも「観念的」にうつったようであるが、つぎのように言っている。
そして、
これは、「千フラン払って芝居を見れるような中年以上の者」だけの反応かとあやしんで、後日「二百フランで、三階の若い人々」のなかでも見物したが、「一階の客以上に注意をもって聴き入り、同じように目をぬらして感動していた。」
これこそ結局のところ観念的な理解にすぎないのかもしれないが、いわゆる「神」をもとめる切実さや、歴史的にも、地続きで迫りくる危険、危機をつねに身をもってひしひしと感じている人々にとっては、これはほんとうに身につまされるものではないだろうか? というところで、読書会でもおおよそ理解が一致したようだ。 そして、どちらかというと八百万の神に親しみがあるわれわれと、唯一絶対の神を信ずる人々とでは、「神」のとらえ方も大いに(あるいは微妙に?)ちがうのかもしれないが、グローバル、ボーダレス、ボーダーフリーといわれる今日、私たちにもけっして無縁なはなしではないような気がする。 武器をとることは、すなわち人をあやめることを意味するが、「無抵抗」という抵抗は、すなわち自身(および、その周辺)をあやめることである、というシビアな意見も提示され、いやはや、出口のない迷路のようだ。
ちなみに、芹沢光治良は、つぎのように締めくくっている。
(2007.08.26) |
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