ヴラン氏は、私が語学の勉強の台本にと思って最も読まれる小説を質ねたら、日本ではジードが流行らしい。最も多く日本に送る小説はジードだからと答えて『狭き門』(*)をすすめた。しかし教科書としてコツコツ読まされると、『狭き門』も面白く感じず、二十頁もして中止した。
私は肺を病みスイスで療養して漸く読書を許されるころになると、経済学の書物など手につかず、日に一冊位の調子で小説を貪り読んだ。経済学は失いかけた命にとって何等の糧も力も与えて呉れなかった。小説は決してキュールの慰めではなく、スイスの自然が生き戻った命に新しく与えた同じ歓喜を、私に与えた。その時偶然ジードの『背徳者』(**)に触れたのだった。これは私には小説ではなかった。第一部を読み終った時、巻を小卓の上に伏せて両掌でしっかり圧え、全身の顫えていることに気も付かない程感動していた。その為に何ヶ月振りに熱を出し、何日もそれから読書を中止した。再び続けては病め、最後に読み終った時、私はこの小説を読まなかった以前の自分と異なった自分を発見したように思った。
生命が新しく驚異的な存在であり、無限の歓喜であることを漠然と感じていたのに、この小説に、それを立派に映し出され、此後病後の生活を如何に導くか迷い抜いていたのに、暗示を与えられ、力を得たからだった。
そして最後にユラ山脈の荒涼たる高原に落ち着いたそこで再び読書とキュールの生活を始め、ジードの他の小説も読んだ。『一粒の麦若し死なずば』(***)に依って、この小説家が私のシャルル・ジードの甥であることを知り、小躍りして喜んだ。それからと云うもの、「共同組合のためにのみ鼓動する心臓を持つ」経済学者ジードの性格、思想、怖る可き小説家ジードの作品、思想との間に、何等かの血族的連りはなかろうかを探ることが、私のたのしい慰みとなった。
ジードは厳しい僧侶のような感がした。細面な顔に、目が鋭く、鼻が高く、しまった唇が意地悪そうだった。禿げ上がった髪を鄭重になでつけているようで、顔は光沢があり健康そうだった。しかし顔全体にはフランス人に独特な軟さがどこにもなく取りつくしまのない感を与えられた。(中略)傍にいて襟を正しくさせられ、自ら反省させられる。『背徳者』のミシェルが二十年たったら、この容貌になるのだなと、私はゆっくり考えた。どこにも意思の力が彫まれたような顔で、話しかけるすきがないと思った。
(*)La Porte etroite, Andre Gide (1869-1951)。
アリサは従弟のジェロームを愛しながらも、地上的な愛をしりぞけて、人知れず死んでいく。アリサのこの行為には、不倫の母親についての苦しい思い出や、ジェロームをひそかに愛している妹へのやさしい思いやりなど、いくつかの原因が考えられるが、真の原因は、彼女の神秘的な禁欲主義である。この禁欲主義はジッドの青少年時代を強く支配していたものである。したがって、アリサは従姉マドレーヌ(のちのジッド夫人)をモデルにしたものであるが、作者自身の分身でもある。ジッドはこの作品において、非人間的な自己犠牲のむなしさを批判しているともいえる。『背徳者』とは対照的な作品。
(**)L'immoraliste
書斎の学究ミシェルは新婚旅行の途中北アフリカで病気にかかり、愛妻の献身的な看護で回復するが、回復後は生命に異常な愛着をおぼえる。そして現在の生命を思う存分享楽するために、過去のあらゆる係累をすてようとする。フランスに帰った彼はアフリカで味わった快楽が忘れられず、再び病妻を伴って旅立ち、ついに妻を死の床に残して快楽にふける背徳者になってしまう。ジッドは1893年に経験した心的傾向に肉体を与え、これを想像的な可能性の世界に放って、一つの実験を試みたのである。
(***)Si le grain ne meurt
第一次大戦中の四ヵ年は、彼はしばらくすてていた福音書を取り出して読みふけった。このことは、彼の旧教への改宗を熱望する人々にひそかな期待をいだかせたが、ついに改宗しなかった。それどころか、16年頃から大胆な告白書である自伝『一粒の麦若し死なずば』を書き始め、20年その一部分を発表して親戚友人の反対にあったが、26年その全部を公刊した。
(いずれも、『新潮 世界文学小事典』新庄嘉章 p393)
2005.06.25