「現代日本文学」
『芹沢光治良文学館(11) エッセイ――文学と人生』
p162(昭和17年)
読者論・文学論・作家論――
文学は表現のマティエールばかりではなく、表現せられる内容が人間の生活に関することであるということが、何かしら鑑賞をやさしく感じさせます。誰も人間の生活は自分のものであるから、分かりきったことのように安心していられます。分かりきった人間の生活を、ふだん使っている言葉で表現しているから、誰にも、文学は用意なしにでも理解できるような感を与えるのでしょう。小説の鑑賞も、実は音楽や絵画のように、ある習練を経なければできない筈ですのに、鑑賞力を養っていない幼稚な読者が、鑑賞だけをして満足していないで、作品批評や作家批評を平然としています。全く驚くべきことです。音楽で云えば、やっとソナチネを先生に叱られながら、調子の狂っているのも知らずに叩いている程度の読者が、島木健作の作品の道徳性を論じたり、阿部知二の知性を論じたり、芹沢光治良論をしたり、そして、平気で日本文学はつまらないと云います。
【※】この作品は、2006年1月22日の読書会ではじめて?読みました。私はこれよりちょうど一週間ほどまえ、『国文学解釈と鑑賞』(至文堂)の特集「芹沢光治良――世界に発信する福音としての文学」(2006年4月10日刊行予定)に掲載する『死の扉の前で』の小文の初稿を提出したところで、ほんとうに「ギクッ!」としました。「日本文学(や芹沢文学)はつまらない」とはいわなかったことだけが救いですが……【稲生
恵道】
こうしたことは、他の芸術の部門ではあり得ないことです。文学の内容が人間の生活というのっぴきならないものであるから、作者は、ある場合には、長い人生の苦悩を経て、智慧や生命や魂を込めているのですが、読者は、そうした深い内容に沈潜するだけの用意をせずに、結局、作者の精神をくみ得ずに、ただ、作品の表面の物語を読んで行って、それで満足しているようなことがあり得ます。しかし、これは罪のないことです。そればかりか、こうした読み方で、自然に、文学を鑑賞する力が養われて行くのでありましょうから、よいことでもあります。
(中略)
さて、文学が人間の生活を言葉によって表現するものだと、前に申しました。しかして、その言葉は、神学の規範(前半部では「覊絆」とある――引用者)を離脱する時に人間が獲得したものであるにしろ、又、自然から旅立つ時に体得したものであるにしろ、この言葉によって表現せられた文学は、人間が自然との闘いで何処へ到ったか、神学の規範を脱してどれだけ旅立ったかを表わす証拠のようなものになりましょう。違った言葉で云えば、神の使命をおびた人間の業が、どれほど遂行せられているかを表わす標識にもなりましょう。他の芸術の分野も、もちろんその役目を果たしますが、文学が最も顕著で、且つ正しいその標識であります。それ故に、文学に接する文学者は大きな使命をかけられているわけです。この偉大な使命を果たすことは、人間のつとめとしては、誇らしいことではありますが、また、敬虔にならなければならないことであります。
嗚呼!
ひきつづき、これでもか、これでもか、というくらい芹沢光治良の文学論が彼自身の生の声で続けられます。これこそが芹沢光治良の真面目。私もメモとして書き留めたいところですが、引用するには長すぎる。ぜひ原典にあたられることをお薦めいたします。
日本の現代作家は、この敬虔さを長い間忘れて来ました。いいや、こうした敬虔さを軽蔑して来ました。そして、この世の生活のなかの、ちりあくた(強調原文)のような個々の出来事を、現実と呼んで、それを黄金のように大切にしました。これを大切にすることは尊ぶべきことでありますが、そのために、天上的ななくがれを、夢をなくしてしまいました。(後略)
主よ、天国のさまざまなものが、それに連なり懸かっている鎖りを、私にお投げ下さい(ミケランジェロの祈り――引用者)。そう祈ることは、決して、己が創作するに便利な霊感をお与え下さいと願うことではありません。霊感というようなことがかりにありとしましても、それは創作するということと密接な関係があるものではありません。創作ということは、小説の場合も、彫刻や絵画や音楽と等しく切り出した大理石に向って――知りつくした題材に向って、刻々自分の血と汗とを流しこんで、幻像として頭や魂に描くものを、その大理石に再現するような労苦です。大理石に――題材に向って、言葉という武器を持ったたゆまない努力によって、祈願を成就させることであります。それには非常な勤労が要求されます。
(2006.02.25)
∞ ∞ ∞
根本的なところで学ばずに、枝葉のところを学んだのが、明治以来西洋文明から学ぶ習慣でありました。しかし、日本の作家は、今こそ人間の探求に、人間を愛することに、人間の尊厳を信ずることに、もっと徹しなければなりません。それは作品を書く時に徹するというようなことではなく、日常生活のなかで、人間愛に、人間の尊厳を信じて生きなければ、作品のなかに、そうしたことは産れません。バルザックが天才というが、あの大きな山脈のような人間喜劇を書き上げたことが天才であるというよりも、この人の日常生活の人間愛こそ天才でした。
たった一つその恋愛を例にとっても、それが分かります。(中略)
バルザックは「永遠の花嫁」の手をとって、馬車を降りました。しかし、それから三ヶ月後には、もうバルザックは死の床につきました。その死の床で、自分は人間喜劇を書いたことで偉大になったのでも、幸福になったのでもない。ハンスカ夫人を愛しつづけて、結婚したことで、偉大にも、幸福にもなったと、云ったそうです。こうした偉大な愛は、日本の作家は、日本人はあまいと云って、一笑にしそうな傾向があります。それは、人間のなかに宿る神を知らなかったからです。自分のなかに、人間と神とが住んでいるのに、その神の部分を知らなかったからでしょう。
∞ ∞ ∞
あなた方は、ジードのこうした経歴についてご存じでしょう。敬虔なカトリックの信仰を持った母と妻とともに住んで、ジードは母や妻の信仰に帰依せずに、「不道徳な」作家と称せられましたが、その作品の基調に、神に捧げる敬虔な福音の調べが、いぶし銀のように光っているのに気付かない者がありましょうか。
(中略)
そのジードの神は教会の神ではありませんが、福音書のなかの神、キリスト一人が孤独のなかに感じたあの神こそ、ジードの神でありましょう。デュアメルもマルタン・デュ・ガルも、ユダヤ人であるジュル・ロマンも、また同じであろうと思われます。この人々は、当然、人間に対しても、敬虔であり謙譲であります。それは、目に見えない己の神に奉仕している態度があるからです。そして、他の人間のなかにも、同じ神を見るのです。一人一人の人間に、全宇宙を感ずるからです。
(2006.03.18)
|