作家が一つの作品をものするには、作品と同時に作者の心に何か創り加えるような苦悩があるものです。時には一つの作品を創作することが、その作者の運命を動かすことさえあります。こうしたことがデコブラ流の制作には起きません。一時的な作品がのこり、原稿料がはいり、むなしい名声がのこるばかりです。
従って、創作は、原稿用紙に向った時だけ、さあ傑作を書くぞと云って、頑張ったからとて、できるものではありません。云ってみれば、作者の日常生活、精神生活のなかに、創作されるのだとも云えましょう。私はこのことを、お能や神社の祭典に比喩をとって説明したことがありますが、お能の舞台を見ていますと、誰でも衣裳をつけて能舞台に立てば簡単に舞えそうに思いますが、どうして日々の精進を重ねなければ、舞えるものではないそうです。而も、動きが尠くて簡単であるだけに、その精進の程度が明瞭に現われるものだそうです。祭典にしましても、神主がふだん日常生活が乱れていて、神殿へのぼった刹那だけ、行いすました顔をしたとて、神様はおよろこびにはまりますまい。
神主を持ち出したのは、創作も一種の神事――神のなすことを真似るものであると考えられるからですが、さて、お能を持ち出して、日々の精進が大切だと申したからとて、お能のように民衆から離れろと、決して云うつもりはありません。それどころか、民衆とともに、民衆に代って物を考え、創作しているのだという覚悟を要することは申すまでもありません。特に近年の如く、世界をあげて営利と戦争に追いつめられて、物を考える余裕のない時代には、作家は落ち着いて営利を越え、戦闘のなかを貫いて、じっくり思考しなければならないのは、言を俟たないことです。ここに作家の使命がありましょう。
お能を持ち出したのも、言語という誰にも自由なものを表現のマチエールとする小説が、誰にも易く書けそうな感じを抱かせるだけに、原稿用紙に向う時ばかりでなく、平常の練成(トレーニング)が大切だと云いたいからでした。その練成が、単に、文章とか、技巧とかだけではなく、心の持ち方、精神のあり方、生活の仕方などにあると、云いたかったからであります。
いざ原稿に向って書く時は、書くとともに、書くことで作者自身が体験し、行をするとでも云えましょう。その点、創作は自分のためにするのだと云えますし、また創作して、作品以外に、作者の精神にのこすものを造ることだと云えます。読者は、小説を読むことで、作者の精神生活を体験し、作者の創作による行の効果を、自分のものにすることができるという恩恵に浴します。これが、読書のよろこび、読書の利益でありましょう。