『須賀敦子と9人のレリギオ
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カトリシズムと昭和の精神史』 |
神谷光信著 日外アソシエーツ刊 2007年11月26日 3800円
清水美穂さんの紹介で『須賀敦子と9人のレリギオ』を読みました。
カバーの折り返しによると「レリギオ」はラテン語で、「敬虔さ」の意味、とあります。religion(レリジョン:宗教)の語源といっていいのかどうかわかりませんが、religion(レリジョン:宗教)は
religio(レリギオ)から派生しているとはいえそうですね。
目次をひろってみると……
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須賀 敦子(作家)カトリック教会への傾斜と反撥 |
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犬養 道子(評論家)信徒神学を生きる |
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皇后陛下 へりくだりの詩人 |
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村上 陽一郎(東京大学名誉教授)近代科学とカトリシズム |
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井上 洋治(カトリック司祭)スコラ神学の拒否 |
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小川 国夫(小説家)夢想のカテドラルの彫刻群像 |
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小野寺 功(清泉女子大学名誉教授) 西田哲学とカトリシズム |
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高田 博厚(彫刻家)運命に逆らわぬ生涯 |
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芹沢 光治良(小説家)実証主義者の「神」 |
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岩下 壮一(カトリック司祭)対決的カトリシズム |
順に読んでみましたが、光治良文学の最大の特徴は「万人にとってのわかりやすさだ」ということを私は反射的に思いました。実際わずか9000字たらずの評論で著者が言及しているのは、やはりベルグソンと出会って芹沢光治良が何を考えたか、ということでした。
「なぜこんな素晴しい文学がもっと広く世間に読まれないのだろうか?」と、よく読書会なかまと「惜しいなあ、残念だなあ」という気持ちで語り合うのですが、いつも「天理教を正面から扱いすぎているからだ」というのが、その有力な要因として提示されるのです。キリスト教作家なら何となく一目おいてしまいそうな雰囲気があるのに……
実際光治良文学をあまり知らない人に話をもちかけると「ああ、あの天理教の……」といわれることはしばしばですし、天理教サイドでは完全に異端視しきっているようにも見えます。もっとも芹沢光治良は天理教徒ではないので、異端という位置づけは成立しないでしょうけれども(ともえいないか>「芹沢光治良の位置」を参照))、偏見によって敵視している人も少なくないのでは、と想像します(それ以前に無関心なのかも……)。それも残念なはなしですが。
このようななかで、芹沢光治良を「カトリシズムと昭和の精神史」に位置づけることはひとつの有力な見方ですね。最晩年作の『大自然の夢』(1992年)から、芹沢光治良のつぎの言葉を著者は引用しています。
何かの信仰があるか、強いて質かれれば、カトリックの信者だと、答えるかも知れません
独り静かに己を省み、想う時には、やはりカトリック信者だと、頷くことがあるのです
芹沢光治良は、自分は天理教徒だともいえるし、キリスト教徒だともいえる。またそのどちらでもない、というようなことを過去に語っていたように記憶しますが、私は個人的に「信仰者より厳しく真理を求める」自由人という位置づけがいいなあ、と思ってはいます。
なお、『人間の運命』第二部 第七巻 第二章で「フランスにいる日本の彫刻家から援助を求められて買った作品」とされる主人公・次郎の書斎にあるロマン・ロランの胸像は、ここで芹沢光治良の直前に取り上げられた高田博厚であろうとのことです。
(2008.01.20)
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