よき「コージロヤン」でありたい
(2005.12.10)
10年ほどまえ、「(光治良先生の)弟子として〜〜したい」―― そう私信のなかで述べられた方がありました。
私はなにやら眩(まば)ゆい感じがしたことをおぼえています。ああ、そんなに光治良先生のちかくにおられるのだなぁ、と。
そこで、私は?―― と考えると、光治良先生なんて、遠い、とおい存在のように感じていました。それは基本的にいまでもかわっていません。
しかし、ちかごろ、自分は「どう生きたいのか?」と考えたとき、「よきコージロヤンでありたい」という言葉に収束していくかな、と思うようになりました。
英語で人をあらわす接尾辞に【-er】【-or】【-ist】【-ian】などがあります。
それぞれ teacher (教師), runner (走者)、actor (俳優), advisor
(助言者)、scientist (科学者), pianist (ピアノ奏者)、musician (音楽家), Christian (キリスト教徒)
など。
シャーロック・ホームズのファンを総称してシャーロキアン(Sherlockian)というのもあります。本国のイギリスではホームジアン(Holmesian)というそうですが、世界には数百の同好の会があるといわれます。
そういえば、ドラエモニアンというのもありましたねえ。(2005.12.15
追加)
なら、光治良先生のファンをコージロヤン(Kojiroian)とよんでみようかと。そして、私は、できれば「よきコージロヤンでありたい」なあ、と。
ちなみに、ユング派の心理学者をユンギャン(Jungian)といいますが、これにならってコージロヤンを「芹沢光治良派」なんて日本語にすると、かなり首をかしげたくなるようなニュアンスをおびてきますが、
河合隼雄氏のユンギャンの定義は、私にとっては傾聴にあたいするものです。文中、ユングもしくは明恵(みょうえ:鎌倉初期の僧)を芹沢光治良と読みかえれば、個人的には、成る程、なるほど、と思えてきます。
(以下、河合隼雄『ユング心理学と仏教』(岩波書店 1995年)p59 より引用)
ユング派とは何か
私はユング派であるということは、C・G・ユングがかつて行なったように、自分の無意識から産出されてくる内容を慎重かつ良心的に観察し、それを基にして自分の生き方を決定し、個性化の道を歩もうとする、そして、そのために必要な基本的方法や知識を身につけている者、と考えています。
(中略)
以上のように考えると、私はユング派に属すると言えます。もし、C・G・ユングの述べたことをすべて正しいとして、それに全面的に従うのがユング派と考える人がいたら、私はユング派ではないでしょう。もしまた、個性化の道を歩むのがユング派なのだから、自分の道を歩もうとする限りどんなことをしていてもユング派である、という人があれば、それはあまりにも安易すぎると私は考えます。自分の独善性や安易さを防ぐため、自分の信じる方法や考えを全面的にぶっつけて検証する相手として、C・G・ユングを選び、そのことに積極的意義を見出す、というのがユング派であります。それに意義を見出せなくなればユング派であることをやめればよい、と私は考えています。ユング派であるとは、ユングにすべて従うと言うのではなく、すべてユングと対決し対比することに積極的意義を認めることだと思います。
(中略)
個性化という点を強調するならば、別にユング派、フロイト派などと言わず自分の道を行けばよい、と思われますが、実際的には学派を選択することに肯定的な意味があるのが、人間の個性の面白いところであります。ただ何の枠組もなく個性を伸ばすなどと言っても人間はどうしていいかわからなくなるか、全くの独善に陥ります。そこで何らかの学派を選択することにより、より全面的にコミットすることが出来るし、自分の生き方を照合する枠組をもつことができます。しかし、学派に属することに安易によりかかると、かえってそれが個性化を阻むものになります。あるいは、時に学派の始祖が教祖になり、理論は教義になってしまうのです。このような学派の選択に伴う功罪二面を知っておく必要があります。
(中略)
明恵を心の師と仰ぐと言いましたが、明恵自身は宗派をひらくことには否定的でありました。彼は当時の宗派の組織や教団から逃れようと大変な努力をしています。このことは、私がたとい明恵を師と仰ぐとしても、明恵を尊敬する集団に属しようとすることはできないことを意味しています。明恵にならうなら私は一人でなければなりません。安易に彼の「弟子」になることは許されないのです。
(以上、河合隼雄『ユング心理学と仏教』(岩波書店 1995年)p59 より引用)
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