古典について
野乃宮紀子氏は、芹沢光治良および彼の作品をつぎのように評しています。
紆余曲折を経て作家となってからも、良識に裏付けられた視点で作品を書き続け、終生高貴な魂を保ち、晩年には預言書といってもよい作品(引用者註:『神と人間』)を書くに至った類まれなその人生。文学に捧げた真摯な一生・作品の在り様は、一過性の流行とは無縁の存在である。
文学史という枠を超えた独特の普遍性。その作品は古典と呼ばれるに相応しい。この古典とは、もちろん、古いということではない。正道を行くもの、エッセンス、エレガントにしてユニーク、正統派、という意味である。日本の良心、日本のまごころ、日本の知性といっても良い、世界に誇れる文学である。やさしさ・暖かさ・明朗さを持つ知性の文学である。
野乃宮紀子『芹沢光治良
人と文学』
そういえば、最近、再編集・再出版された渡部昇一氏の『ものを考える人』(三笠書房)で、古典にかんする元気のでるような文章を再読したところです。
ところで、古典を古典たらしめるものは何だろうか。
20世紀イギリス最大の小説家と言われるアーノルド・E・ベネット(1867〜1931)は、「ア・パッショネット・ヒュー、つまり、熱情的少数の読者をつかんだ本が古典になる」と指摘している(強調引用者)。
絶えず、その本について語り、それがいい本だと繰り返すような少数の情熱的な読者を獲得することに成功した本、そうした本が古典として残るというのである。
たとえ、10年前の大ベストセラーであっても、このパッショネット・ヒュー(引用者註:a passionate
few、熱情的少数)がいなければ、すぐ忘れられてしまう、とまで言っている。つまり、今世界に残っている古典は結局、パッショネット・ヒューの存在を抜きには考えられないのである。
また、古典には時間と空間の距離をものともしないという特徴がある。したがって、時間と空間の距離が離れてはじめて価値がわかるというようにも言えるだろう(いずれも強調原文)。そうした古典には楽しめる要素がある。例えば、夏目漱石は当時も人気のある作家だったが、今でも十分に楽しめる。時間がたち、空間が離れても楽しく読める。だからこそ、古典と呼ぶに値する。
(渡部昇一『ものを考える人』三笠書房)
つまり、光治良文学は一見マイナーな文学のようだけれども、古典としての資質を充分そなえている、ということに気をよくした次第です。
「絶えず、その本について語り、それがいい本だと繰り返すような少数の情熱的な読者を獲得することに成功した」――なんてところは、まさに私たちそものもではありませんか。
すでに日本のあちこちで定期的な読書会がもたれていますし、それらに直接関係していなくても、ひそかにパッショネットな読者がいることは絶対に間違いない、と思えるからです。
ついでに、もう一箇所引用しておわりましょう。
もっとも、別にそういった古典にばかり目を向ける必要もない。何回も繰り返して読み、その繰り返しがその人にとって長期間続けられているような本なら、それはその人自身の古典といってもいいだろう。今生きている人々の記憶からほとんど消えてしまった本であっても、どこか面白いところがあり、愛読しているというのであれば、それは自分の古典と言っていい。そうした自分にとって十分に価値のある本に巡り合えることは、人生の大きな幸福でもある。
(渡部昇一『ものを考える人』三笠書房)
2007.03.27
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