― しあわせへの道しるべ ―

芹沢光治良の文学の世界を ささやかながら ご案内いたします。新本、古本、関連資料も提供いたします。

▼ 当ページの内容 見出し部
左記指定項目の詳細部
Serizawa Kojiro

 芹沢光治良文学読書会

-

更新履歴 (What's New!) 2015.11.07

 

<2010年> <2009年> <2008年> <2007年> <2006年> <2005年> 〜<2004年>

読書会のごあんない (Top Page)

テキストについて

輪読成功ものがたり
芹沢光治良、公会堂来訪?
よき「コージロヤン」でありたい
偉大なる隣人
古典について
-
 さくひん提供ひろば
-

新本、古本、関連資料 差し上げます

「ゆずってもよい作品」ありますか?

台湾在住の方へ、朗報です!
  -
 トピックス
  -

■生誕110周年記念 芹沢光治良「神と人間」―全8冊― (2006年4月28日発売) 14,700円(税込)■

ちらしをご案内します

「神と人間」へようこそ!

『神の微笑』『神の慈愛』『神の計画』『人間の幸福』『人間の意志』『人間の生命』『大自然の夢』『天の調べ』「遺稿」

   

『芹沢光治良研究』 おうふう より 2007年11月刊行

   

国文学解釈と鑑賞 <<特集>> 芹沢光治良――世界に発信する福音としての文学

詳細のご案内

(至文堂)2006年5月2日発売

   

『芹沢光治良 人と文学』 勉誠出版「日本の作家100人」シリーズで2005年3月末刊行

   
アエラ No.40 に掲載されました!(2003.9.29)
芹沢光治良を知っていますか ――「良心」の文学

千年の文学者 30位! (2000.6.29)

『須賀敦子と9人のレリギオ――カトリシズムと昭和の精神史』
芹沢光治良の位置
『人間の運命』への招待
芹沢文学の軌跡 〜エッセイに読み取る芹沢光治良〜
   
 『神の微笑』文庫化によせて――読者の声
-
 

2004年(平成14年)『神の微笑』の文庫化にあわせて、読者のみなさまに感想などをお寄せいただきました。サブサイトへどうぞ。

-
 寄 稿 文
-
愛読者仲間による寄稿文をあつめた サブサイト です。
  -
 雑文です。恥ずかしながら……
-
  管理人の雑文です。まじめに書いてはいますが……
 

【new!】芹沢光治良のピューリタニティ、あるいはピューリティについて

ローマ法王との個人謁見

自由人……

ホ・オポノポノをご存じですか?

-
 備忘録
 

私的な 備忘録、メモ です。

  いたく感じたところ、
  あらためて発見したところ、
  こんな芹沢光治良がすきだ、
  やっぱり光治良先生はすごい……

そんなところを抜き書きしてみました。

   
 つれづれ
-
  光治良文学には直接関係ない雑文です
-
 リンク
-
「芹沢光治良文学館」へ
全国の読書会へ
  -

古典について


野乃宮紀子氏は、芹沢光治良および彼の作品をつぎのように評しています。

紆余曲折を経て作家となってからも、良識に裏付けられた視点で作品を書き続け、終生高貴な魂を保ち、晩年には預言書といってもよい作品(引用者註:『神と人間』)を書くに至った類まれなその人生。文学に捧げた真摯な一生・作品の在り様は、一過性の流行とは無縁の存在である。

文学史という枠を超えた独特の普遍性。その作品は古典と呼ばれるに相応しい。この古典とは、もちろん、古いということではない。正道を行くもの、エッセンス、エレガントにしてユニーク、正統派、という意味である。日本の良心、日本のまごころ、日本の知性といっても良い、世界に誇れる文学である。やさしさ・暖かさ・明朗さを持つ知性の文学である。

野乃宮紀子『芹沢光治良 人と文学』

 

そういえば、最近、再編集・再出版された渡部昇一氏の『ものを考える人』(三笠書房)で、古典にかんする元気のでるような文章を再読したところです。

 

ところで、古典を古典たらしめるものは何だろうか。

20世紀イギリス最大の小説家と言われるアーノルド・E・ベネット(1867〜1931)は、「ア・パッショネット・ヒュー、つまり、熱情的少数の読者をつかんだ本が古典になる」と指摘している(強調引用者)。

絶えず、その本について語り、それがいい本だと繰り返すような少数の情熱的な読者を獲得することに成功した本、そうした本が古典として残るというのである。

たとえ、10年前の大ベストセラーであっても、このパッショネット・ヒュー(引用者註:a passionate few、熱情的少数)がいなければ、すぐ忘れられてしまう、とまで言っている。つまり、今世界に残っている古典は結局、パッショネット・ヒューの存在を抜きには考えられないのである。

また、古典には時間と空間の距離をものともしないという特徴がある。したがって、時間と空間の距離が離れてはじめて価値がわかるというようにも言えるだろう(いずれも強調原文)。そうした古典には楽しめる要素がある。例えば、夏目漱石は当時も人気のある作家だったが、今でも十分に楽しめる。時間がたち、空間が離れても楽しく読める。だからこそ、古典と呼ぶに値する。

(渡部昇一『ものを考える人』三笠書房)

 

つまり、光治良文学は一見マイナーな文学のようだけれども、古典としての資質を充分そなえている、ということに気をよくした次第です。

「絶えず、その本について語り、それがいい本だと繰り返すような少数の情熱的な読者を獲得することに成功した」――なんてところは、まさに私たちそものもではありませんか。

すでに日本のあちこちで定期的な読書会がもたれていますし、それらに直接関係していなくても、ひそかにパッショネットな読者がいることは絶対に間違いない、と思えるからです。

ついでに、もう一箇所引用しておわりましょう。

 

もっとも、別にそういった古典にばかり目を向ける必要もない。何回も繰り返して読み、その繰り返しがその人にとって長期間続けられているような本なら、それはその人自身の古典といってもいいだろう。今生きている人々の記憶からほとんど消えてしまった本であっても、どこか面白いところがあり、愛読しているというのであれば、それは自分の古典と言っていい。そうした自分にとって十分に価値のある本に巡り合えることは、人生の大きな幸福でもある。

(渡部昇一『ものを考える人』三笠書房)


2007.03.27

 

なにか <ひと言> メールする

芹沢光治良文学読書会

Serizawa Kojiro
.04)
▲ 当ページの内容 見出し部
左記指定項目の詳細部
 
※ リンクがはずれている箇所を発見されたら、ご一報くだされば幸いです。(2004.11.04)