― しあわせへの道しるべ ― | |
芹沢光治良の文学の世界を ささやかながら ご案内いたします。新本、古本、関連資料も提供いたします。 |
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Serizawa Kojiro
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自由人……
私は、芹沢光治良のこの言葉がすきです。 私の信条そのものだから。―― そうであればカッコいいのですが、残念ながらそうではありません。あこがれのようなものでしょうか。 遠藤周作と自分をならべようとも思いませんが、彼はこう言います。
また、
とも。
ちなみに、ユング心理学者の河合隼雄は
と注目しています。 このあたりにつきましては、以前(2006年)『死の扉の前で』をめぐって「自立と厳しさ」という小文にまとめたことがあります(『国文学 解釈と鑑賞』別冊「芹沢光治良――世界に発信する福音としての文学」)。
ところで、昨年さいごの読書会(2010年12月19日)で、このときはAKさんとたった二人きりで「ミケランジェロと語った日」(『芹沢光治良文学館(12) p382)を読んだとき、再会しました。「自由人」に。 すこし長くなりますが引用します。ほんとうは全文を是非読んでいただきたいエッセイです。
そして、
と。
「自由人」とは、「何ものにも束縛されない自由な人」というくらいの意味で、芹沢光治良なりに非常な重みをもたせた造語だろう。はじめのうち私はそのように理解していましたが、いつだったか、「奴隷」と対置する言葉なのか? と考えるようになりました。 だれかが、光治良文学とは関係ないどこかでそんなことを言っていたからだったような気もします。旧版の広辞苑をふくむ手持ちの複数の国語辞典に「自由人」という項目はありませんでしたが(現時点でのウィキペディアでは確認ができます。※本コラム末)、上のエッセイからは精神的な奴隷というようなこともふくめ、その対置としての自由人と考えることができそうです。
それにしても、やはり「自由人」というのは本当に厳しいものだ、ということは、冷静に考えれば容易に理解することができます。 私たちは古い因習から随分と解放され、大した根拠のない優越感のようなものさえいだいている可能性もありそうですが、じつは新たなさまざまな束縛の奴隷にみずからなっているようなことはないでしょうか。 「欲望の奴隷」ということでいえば、ひょっとすると古い因習からの解放に比例してがんじがらめになっている節もうかがえます。 その象徴が「お金」です。本来は画期的な仕組み、機能をもっているはずですが、私自身無意識にその奴隷になっているような気がしながらも、でもお金を否定することはできません。 森次郎(『人間の運命』の主人公。芹沢光治良?)もお金の本質を究めたくて、好きな文学の道をすてて経済学をこころざしましたが、結論はどうだったのでしょうか。 私は近年、森次郎ならどんな結論をだすのだろう? それをずっと本人に訊きたく思っていました。その答えを何となくもとめながら、今年もみなさんと一緒に光治良文学を読み進めていこうと思います。
(2011.01.10) |
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