― しあわせへの道しるべ ―

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寸評にみる芹沢文学の現代的意義
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寸評にみる芹沢文学の現代的意義

Date: Sun, 14 Sep 2003 13:36:43

みなさま、こんにちは。稲生恵道です。芹沢文学でつながった複数のお仲間にいっせいにご連絡しております。今日はじめてメールでご連絡する方もありますが、個別メッセージはお送りいたしません。唐突なおたよりで驚かれたかもしれませんが、おゆるしくださいませ。

また、かってに長文をお送りしてしまいました。興味のない方は、どうぞあっさりご廃棄くだされば幸いです。


さて、本題にはいりましょう。たまたま好きで読んでいた書籍に「芹沢文学の現代的(未来的?)意義」なるものを発見いたしました(もとの対談は、2002年11月5日)。

河合隼雄と中沢新一の対談『仏教が好き!』(朝日新聞社、2003年8月)なのですが、帯には「聖者の生涯、臨終場面、戒律、性の問題をキリスト教、イスラム教と比べて、ユーモアいっぱいに語りながら、仏教の核心へ」とあります。いかにもの軽いタイトルとは裏腹に、内容的にはむずかしく、50%理解できたかどうか、私としてはあやしいところですが……

そこに「幸福」について考える章があり、いまの日本人の幸福観を再検討しています。

(ここからは引用が多くなります。そもそもは、あやふやな理解のもとに何かをしようとしているのですから、まず自分のことばとして語ることができません。ヘタな講釈より、一部でも原文によりご紹介したほうがいいだろう、とも思いました。いずれにせよ恣意的ぶつ切り引用でもありますから、興味のある方はぜひ原典をご確認いただくとして。)

河合――『マクベス』のなかのマクベス夫人の言葉に「望みは遂げても、満足がない」というのがあります。それがいまの日本の状況です。みんな金があって、家買ったり、車買ったり何かしとるのに、だーれも満足していない。仏教の安心というのとは、対極みたいなものでしょう。(p182)

と、まず現状分析があります。

中沢――日本人はひょっとしたら、いま世界でいちばん不幸せな民族になってしまっているのではないですか。経済や社会のシステムは、キリスト教的世界観を背景にしている西欧製のものを受け入れたけれども、「幸福」を考えるときには、それとは違う回路を作動させています。「ハッピー」や「ボヌール」の背景には神がいますが、日本人の「幸福」の後ろには、昔それを支えていたスピリットさえなくなっている。これが大変な不幸です。

河合――そうなんです。キリスト教的世界観をキリスト教抜きで受け入れたのだから、まったく大変です。

中沢――日本人はいち早くその不幸を体験させられてきたわけですが、これからすべてのアジア人がそれに苦しまなければならなくなるでしょう。(p192)

また、こんなふうにも。

中沢――『声に出して読みたい日本語』という本が大変によく売れていますけど、大体は音読にたえる「いい日本語」と言われているものは、貧乏な時代に書かれています。あとはだんだんと声に出したくなくなるのですね。

河合――日本人の倫理、宗教などは、物が少ないことを前提にしてそのシステムをつくってきたのです。

中沢――その時代の日本語に対して「いいなあ」ってしみじみしていますが、その言葉はいまと対応はしていません。物があふれて、言葉は貧しくなった、とよく言われますが、そういうしみじみをつづけていても、われわれの不幸は解決されないでしょう。

河合――そうです、そうです。だから時代と環境が変ったときにどうするか。僕、これは本当に文科系の学者とか宗教家とかの怠慢やと思いますね。何も考えていない。

中沢――すみません。これからしきりに考えます(笑)。

河合――自戒もこめて言っています。そしてずるい人は、言うだけ言うといて、自分の生活は別にやったりしているでしょ。(p195)

もうちょっと。

中沢――アニミズム的贈与論の考え方がある。日本仏教というのは何かと言ったら、何千年、何万年来のアニミズム的な考え方と仏教の哲理が合体したときに、ようやく日本人が納得するものができた、それなんですね。そしてそういう仏教の考え方を取ると、安心が得られるんですね。

だから日本仏教の本質を、僕は「縄文時代の仏教」と呼んでいるのですよ。つまり、縄文時代に形成された思考法がそのまま生かされて、しかも高度な表現にまで発達して、だから「日本仏教」というのは、すでに縄文時代にもあった、という考えです。

河合――なるどほ、そう言ったらとてもよくわかりますね。

中沢――日本仏教というのはそのようにして展開してきた。その創造力が江戸時代には止まってしまいます。日本仏教はすっかり展開力を失って、そこから明治に入るわけですね。明治にこんどはキリスト教とか西欧合理主義とか、個人主義とか資本主義とか功利主義とかいろんな思想が入ってきたときに、仏教はすでに新しい状況に創造的に対処できる力を失ってしまっていたのかもしれません。

河合――それはね、僕は仏教が保護されすぎたからだと思うんです。何も宗教的活動をする必要がなくなったのですよ。

中沢――そうですね。

河合――つまり、宗門改をやり出して檀家制度ができたでしょう。だから本来的な宗教活動なんてしなくても、みんな食えるわけです。これはいちばん堕落しやすい。

中沢――一部の例外を除いては、まったく弾圧もされませんし。

河合――「安心」は大切ですが、宗教にとって「安楽」は危険なのですね。(p197)

さあ、いよいよ佳境。つづきです。

中沢――むしろそういう意味で日本人の創造的な宗教を担ったのは弾圧された金光教とか天理教とか大本教とかで、それのベースになっているのはアニミズムです。

河合――そう言っていいと思います。

中沢――神話的思考でもある。

河合――しかももっと驚くべきなのは天理教の中山みきにしろ、大本教の出口ナオにしろそういう体験者が出てきたということでしょう。それらの記録を見ると、こんな近い時代にこのようなことが実際に生じたのだと感動しますね。

中沢――そうなんです。

河合――世界的に見て、珍しいですよね。

中沢――珍しいです。たぶんあれは日本に『古事記』『日本書紀』があって、新石器的な神話の原型というものが残っていて、自分が直観していることを神話の原型にのっとって語ることができたからでしょう。ヨーロッパではそれがむずかしかったと思います。新しい宗教運動もおこってきたけれど、キリスト教の枠を大きく踏み出すものではなかったですね。

ところが中山みきにしても、出口ナオにしても、みんな神話のパターンを創造的に利用できています。明治時代のあの日本人が直面していた精神的な危機の時代に、アニミズムの土台の上に創造がおこなわれて、ついには昭和に入って芹沢光治良の文学みたいなものまで生まれるわけじゃないですか。それが日本人にとっての宗教性再生の重要なパターンですね。

ということなんです。

日本には、もともとしっかり落ち着いた幸福感がいきわたっていた。「一切空」というような深遠な仏教的悟りも、貧しい時代には暗黙の了解のように、すべての人が難なく体で感じていたそうです。菜の葉一枚でも、お米ひと粒でも勿体ない、「いっさい食う!」と(爆笑)。

(あっ、コレ、前シリーズにおける河合発のギャグです。)

豊かさと自由を獲得した私たちは、みずからの責任と主体で、いまの時代に即したほんとうの幸福観をもとめ、共有していかなければならないようです。その一端に芹沢光治良の文学があるのだとは、嬉しい話しではありませんか。

中沢新一の母方の祖父が『パリに死す』のモデルだった、と以前聞いたことはありますが、中沢新一って、ほかにも芹沢文学についていろいろと言及しているのでしょうか? そういうものがあれば、ぜひとも読みたい、と思いましたし、ぜひともっといろいろとお話しを伺いたい、とも思いましたね。

さようなら。

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