― しあわせへの道しるべ ―

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ホ・オポノポノをご存じですか?

 

今日は、メンバーのひとりから「ホ・オポノポノ」による奇跡の実話をきかせてもらいました。かりにAさんとしておきましょう。生きる勇気がわいてくる幸せなお話です。

 

そのまえに。

「ホ・オポノポノ」とは、400年前からハワイの人たちに伝わっていた問題解決の方法で、ハワイ語で

ホ・オ」は「目標」 を、
「ポノポノ」は「完璧」 を意味しています。

つまり「完璧を目指す」といったくらいの意味合いです。あるいは「完璧への回帰」か。

 

そもそも、われわれ人間は、本来完璧な存在であったとされます。

それが完璧でなくなるのは、ビッグバンからこの方、われわれの潜在意識に蓄積されたありとあらゆる過去の記憶が再生され、現在に投影されているからだ、と考えるそうです。

しかもその記憶は、本来の完璧な人間にとっては「間違った記憶」で、いわばこわれたレコーダが誤ってその記憶を再生しているようなものなのです。

抽象的な説明のしかたで申し訳ありません。詳細はインターネットでも「ホ・オポノポノ」のキーワードで検索できますし、おなじキーワードで何冊かの本が確認できますので、そちらを参照いただくとして、もう少しつづけますと、

もし、私たちが現実に何かこまったことがあるとすれば、それは私たちの潜在意識にある「誤った記憶」が再生されている、と、ホ・オポノポノでは考えます。

その「誤った記憶」がいま自分が苦しんでいる本当の原因なのですから、その原因をとりのぞく(クリーニングする)ことが私たちがとるべき行動だということになります。

 

では、具体的にはどうすればいいか?

 

ただ、「ありがとう。ごめんなさい。ゆるしてください。愛しています」と心のなかでとなえるだけだ、というのです。たとえ、本心からそういえなくても……

つまり、その状況を受け入れ、感謝し、わびる気持ちになろうとすることのようです。

そうすることによって、「神聖なる知能」が誤った記憶を消去してくれるのだと。

 

このときのポイントは、どんなに理不尽なことが自分にふりかかってきても、すべては「自分の責任」として受けとめるということです。

この態度に例外はないといいます。文字どおり「どんなことにも」ほかならぬ「自分が」すべての「責任を負う」。

もちろん自分以外の人にも責任はあるかもしれませんが、もし自分が何かを感じたり苦しんだりするのであれば、「100%自分の責任である」と。

相手にしても自分にしても誤った記憶の出どころは同じなのですから、「私が」その原因となる誤った記憶を消去してもらうよう神聖なる知能に依頼するのです。

でもややこしいことではない。記憶の出どころを詮索する必要もない。どうせできっこないのだから。

ただ「ありがとう。ごめんなさい。ゆるしてください。愛しています」と心のなかでとなえるだけ…… となえる順番はどうでもいい。たとえどれかひとつでもいい……

そうして、過去の誤った記憶が消去されることにより「私」が癒されるのですが、同時におなじ原因で苦しむ相手もいやされ、現象としての「問題」は消えてなくなり、ものごとが好転するのです。

 

このときのもうひとつのポイントが、「なんで私だけが……」というケチな心をおこさないことです。

 

世の中には4種類の人間しかいないといいます。すなわち

- anybody
-somebody
- -nobody
everybody の。

しかし、

だれでも--(anybody)できることだから、
だれかが-(somebody)やるだろうと思っていたら、
結局だれも-(nobody)やらなかった。
みんなが(everybody)やると思った

という、

無責任な人間の4段活用ともいうべき総無責任体制にいまの世の中はなっていて、結局「だれも何にも責任をとらない」ことになっているのですが、これをいっているあいだは世の中は何もかわらない、ということだそうです。

私たちには「ホ・オポノポノで生きるか? そうではないか」、「神聖な知能からの直感にもとづいて生きるのか、これまでのように誤った記憶に翻弄されて生きるのか」、いずれの選択しかない、ともいわれます。

 

私ははじめてこの考え方に接したとき、非常に熱くなりました。ひとりでも多くのだれかに伝えたくなりました。しかし同時に、この考えを私の胸におさめるのに3ヶ月ほどかかりました。

 

その後、熱い気持ちでAさんに語ったところ、なんと、Aさんはすでにご存じでした。でも私との語らいのあとに実践してみたそうです。そして、約1ヶ月ほどで奇跡は起きたのです。

 

1)大学入学以来ひきこもりになって7年になるお子さんがかわりました。

Hちゃんとしておきましょう。そのうちの3年は家からアルバイトにでかけていたのですが……

毎夜、夜中になってパソコンのキーを叩く音がきこえてくると、もう何ともやるせない気持ちでどうしようもなくなったとAさんはいいます。

この子はご飯を食べないために死ぬのではないか? と本気で心配したときは眠れないこともありました。

Aさんは「ありがとう。ごめんなさい」ととなえただけだそうですが、まず、それだけで自分の心がかるくなって、すくわれたように感じました。

そんなあるとき、突然、Hちゃんの兄弟に深刻なピンチがおとずれ、それに対応できるのは、そのときはHちゃんだけでした。ピンチをすくうには関西から北だったか南だったか日本の端っこまで行かなければなりませんでした。

それに「行く」とみずから言ってくれたのです! 家から一歩も外に出れないようなHちゃんがです。

7年もひきこもっていたのですから、まずこんなことは絶対に考えられなかったことなのです。実際Aさんは何はさておき、親としてHちゃんに「行ってやってくれ」とたのんだのですが、あえなく断られていたのです。

そればかりではありません。

 

2)海外への旅行も決心したのです。

これもたまたまなのですが、ほぼおなじタイミングです。Hちゃんからみたおばさん(Aさんの姉? 妹?)が遠方から関西に出張になったのですが、突然最終日にぽっかりと空きができてしまいました。仕事もないのにホテルにとまるのはさびしいので、急遽兄弟であるAさん宅をおとずれたのです。

そのおばさんがHちゃんに「○○に一緒に行かない?」とさそったところ、ふたつ返事で「うん、行く」と答えたのだそうです。

経験のある方は、このことのすごさがおわかりいただけると思いますが、こんなことは、本当に「あり得ないこと」です。

さらに、

 

3)売上が倍増しました!

これはAさん自身の話です。下世話な話ではありますが、一生活者としてはお互いに切実な問題です。

昨秋のリーマンショック以来大きな影響を受けていました。世の中をみても、同業者をみまわしても、だれからも景気のいい話はきかない…… そんななかでの「倍増」。

 

 

ひとつひとつが大きな奇跡であるのに、それが揃いもそろって、という感じで……

 

Aさん自身、これは一過性の現象であるかもしれない、と決して有頂天にはなっていません。

おなじような経験をしたBさんは「それは、もうたまたま立ち直る【時機】だったのだ」と評しました。

ホ・オポノポノの実践と上述の3つの奇跡の因果関係は、ほんとうのところはわかりません。

ただ、通常では非常に考えにくい「奇跡」とも思えるようなことが立て続けに3つも起こったことは、素直にみとめ、冷静な注意をはらっておく必要はあるでしょう。

 

そして、あまりに偶然がかさなっている……

 

1)Hちゃんによる兄弟救出劇 は、ほんとうに深刻なピンチが兄弟にふりかかってきたのです。何のまえぶれもなく、本人たちにはまさに晴天の霹靂のごとく。

 

2)おばさんの来訪 などもAさんのあずかり知らないところで降って湧いたような話でした。

しかも本当なら、そのおばさんは自分の娘と旅行することになっていたのが急遽キャンセルになって、意図するともなくHちゃんがすっぽりはまる場所ができていたのです。

 

3)売上倍増 も、右を見ても左を見ても、そもそもそんなことが期待できるご時世ではないので、期待しようという発想すらなかった。もちろんそれへ向けての営業努力などは何もしていなかったのです。

 

このように、私たちをとりまく環境が刻々とかわり、決定的な瞬間がおとずれることをユングはコンステレーションとよんで、特別な注意をはらっていたようです。

コンステレーションとは「星座」。なんだか、上のような状況を非常によくいいあてているようです。

そして、「意味のある偶然の一致」ということで共時性(シンクロニシティ)ということにも着目していました。

 

こんな話をしていたら、むかしT教に親しんだというCさんがこんな話をしてくれました。

それは、T教の親様の教えとまったく(?)おなじだと。

ホ・オポノポノでいうところの「ありがとう。愛しています」を、親様は【たんのう】と教えた。

「ごめんなさい。ゆるしてくだい」は【さんげ】、「過去の誤った記憶」は【ほこり】、そしてその集積である【いんねん】だと。

そういえば、ホ・オポノポノの提唱者であるイハレアカラ・ヒューレン博士はこんなことをよく訊かれるようです。

どんなことでも100%自分の責任、というけれども、本当に「自分に関係のないこと」には責任などないのではないか? なぜ、そんなことにまで自分が責任をもたなければならないのか? と。

これに対しては、「どんなことでも、自分をクリーニングするために生起してくるのだ。だから、ただひたすらクリーニングをすればいい」と、ゆったりと答えるのです。

こんな話をしていたら、Cさんは「親様は、それは【見るもいんねん、聞くもいんねん】といって、自分の身にふりかかることを決して他人事にしてしまわず、自分たちひとりひとりの心のそうじをするよすがにするよう教えてくれたのだ」と教えてくれました。

 

そうすると、こんどは過去にK教に親しんだことのあるDさんは、

K教では、いつも「めぐり」=カルマ=業が、難儀をおこすから、「お詫び」をして許しを請わなければならないと教えている。

そして、感謝の心で日々を送り、人は天地を想い、天地も人を想うように、人と神とが「あいよかけよ」と助け合うことを求めるのだ

と教えてくれました。K教とも本質はおなじだと。

 

山頂を目指すルートはそれを目指す人の数だけあるのですから、このような理解もまったく自然なことなのかもしれません。

 

私たちはみんな、芹沢光治良の文学の愛読者です。私自身はシャーロキアンやホームジアンをまねてコージロヤンとよんでいますが、でも、すばらしい考え方にはオープンでいたいと思っています。みんなそうだと思います。

芹沢光治良自身からは直接的には「ありがとう。ごめんなさい。ゆるしてください。愛しています」とは聞こえてきませんが、背後にそれが薫っていることははっきりわかります。

自分にふりかかってくるどんな過酷な人生をもすべて引き受けて乗り越え、人生の応援歌を高らかに謳いつづけた彼の文学に、みんなは惹かれるのだと思います。


いやいや、なんだか愉快な一日でした。

(2009.08.27)

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