― しあわせへの道しるべ ―

芹沢光治良の文学の世界を ささやかながら ご案内いたします。新本、古本、関連資料も提供いたします。

▼ 当ページの内容 見出し部
左記指定項目の詳細部
Serizawa Kojiro

 芹沢光治良文学読書会 ―― メインサイトへ

-

サブサイト
『神の微笑』文庫化によせて――読者の声

-
13
『神の微笑』との対話
12 遠い日の記憶が甦る
11
新たな <芯> が芽生えた
10
自殺願望からすくわれた
9
文庫化に賛辞をおくりたい
8
私は心の中で叫びました!
7
平易で、なくなめらかでわかりやすい文体
6
とらわれないことの むずかしさ
5
これは希望の書だ
4
一気に読ませる面白さ
3
完全にとりこになりました
2
胸の動悸が治まらない
1
感謝できるようになりました
注釈
-

『神の微笑』文庫化によせて――読者の声

6) とらわれないことの むずかしさ

光治良先生があまり知られていない理由、ともすれば「ああ、天理教の……」と皮相な誤解を生んでしまう理由は、まさに真っ正面からそれにとり組んだからのように思われます。

自分の作家としての立ち回りを考えたら普通ならさけて通るようなところに、読者の誤解もおそれず敢えて斬り込んでいく大胆さは、いったいどこからくるのでしょうか?

つぎのような記述があったので、ひとまず私は納得しました(単行本 p197)。

このように、無信仰な僕が、宗教に関係したことに興味があるように、いろいろ体験したのは、ソルボンヌ大学でシミアン教授の研究室で勉強していた頃、教授にすすめられて、同じ社会学者のモース教授の講義を一年間、研究室の仲間と聴講した影響だと、独りきめていた。モース教授は世界中の宗教的現象を、未開発国から文明国まで、すべてを調べて、その土地の社会生活との関係を研究していて、楽しい講義だった。それ故、僕たちは信仰ぬきに、あらゆる宗教現象を社会現象として受けいれる習慣だったからだ。

読者がおちいりやすい誤りだと思いますが、自分が好きだからとか嫌いだからとか、賛同するとかしないとか、そういった価値判断からなにかを表現しようとしているのではなく、著者のゆるがぬ立脚点があるのは当然としても、多くの場合「社会現象」をありのまま記述して、私たち読者に考える素材を提供してくれるのではないだろうか、ということです。

また、「モース教授が学問的にあれ程熱心にシャーマニズムを論じると云うのは、結局人間の心の中に住む一つの神聖なものを、取り上げようとした」ように、光治良先生にはさけて通れない、私たちの「生きる」ことに直結する主題であったのだと思います。

こういったところが理解できるかできないかが、光治良作品を評価できるかできないか(おぼれるか溺れないか?)、というところにつながっていくような気がします。

言葉どおり受けとめる、というのか、現象を現象として認める、あるいは何かにとらわれない。

とらわれないことのむずかしさを、つくづく知らされました。

なにか <ひと言> メールする

芹沢光治良文学読書会

Serizawa Kojiro
.04)
▲ 当ページの内容 見出し部
左記指定項目の詳細部
 
※ リンクがはずれている箇所を発見されたら、ご一報くだされば幸いです。(2004.11.04)