― しあわせへの道しるべ ― | |
芹沢光治良の文学の世界を ささやかながら ご案内いたします。新本、古本、関連資料も提供いたします。 |
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Serizawa Kojiro
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『神の微笑』文庫化によせて――読者の声 6) とらわれないことの むずかしさ 光治良先生があまり知られていない理由、ともすれば「ああ、天理教の……」と皮相な誤解を生んでしまう理由は、まさに真っ正面からそれにとり組んだからのように思われます。 自分の作家としての立ち回りを考えたら普通ならさけて通るようなところに、読者の誤解もおそれず敢えて斬り込んでいく大胆さは、いったいどこからくるのでしょうか? つぎのような記述があったので、ひとまず私は納得しました(単行本 p197)。
読者がおちいりやすい誤りだと思いますが、自分が好きだからとか嫌いだからとか、賛同するとかしないとか、そういった価値判断からなにかを表現しようとしているのではなく、著者のゆるがぬ立脚点があるのは当然としても、多くの場合「社会現象」をありのまま記述して、私たち読者に考える素材を提供してくれるのではないだろうか、ということです。 また、「モース教授が学問的にあれ程熱心にシャーマニズムを論じると云うのは、結局人間の心の中に住む一つの神聖なものを、取り上げようとした」ように、光治良先生にはさけて通れない、私たちの「生きる」ことに直結する主題であったのだと思います。 こういったところが理解できるかできないかが、光治良作品を評価できるかできないか(おぼれるか溺れないか?)、というところにつながっていくような気がします。 言葉どおり受けとめる、というのか、現象を現象として認める、あるいは何かにとらわれない。 とらわれないことのむずかしさを、つくづく知らされました。 |
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Serizawa Kojiro |
.04) |
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※ リンクがはずれている箇所を発見されたら、ご一報くだされば幸いです。(2004.11.04) |