― しあわせへの道しるべ ―

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「教祖様」

〜 慈悲心で生き抜き「神」になった女性 〜


筆者は宗教ゆえに両親に捨てられ、自らはそのために無宗教で生きてきたというのに、なぜこのような作品を書いたのだろうか。こんな膨大な作品を。私がこの本を手に取ったのはそんな理由からだった。やっとの思いで読み終わり、私が出した、あくまでも推論だが以下のことを考えた。

 筆者の実証主義に基づく精神から。
 筆者自身が、自らの原点を見つめ直すために。

この二つがこの偉大な作品を作り上げたのではなかろうか。

人を幸せにするはずの宗教、になぜ幼い自分が翻弄されねばならなかったのか、という叫びにも似た疑問は筆者の胸の中に常にあったのではないのか。

フランス留学から帰国し、本当の意味でやっと自分の人生を歩み始めた筆者が、そこで培った実証主義の精神に基づき、「中山みき」という一女性を描いた。

そして、私、女である私、から見たら、そこには余りにも慈悲そのものとして生き抜いた一人の女性がいるのである。
 
尼になりたいと願っていながら、意に反して13才で嫁にやられる。旧家の嫁としてしきたりなど世帯一切を任され寝る間もないほど働かされる日々。そして当時の女性のお産のときのあまりにも屈辱的な扱われ方。あれでは馬や牛以下である。また、日常生活も大きいお腹で体の不自由な姑をおぶって面倒を見る姿、夫の浮気など、多くの試練が描かれている。
 

中山みきの人生の前半は人の命を生み出す事と大きく関わっている。とことんまで人の命を尊重する生き方。妊娠し、子供を生み出すということ。それはどんな子供でも、いやどんな存在にも大切な命が宿っている、という実体験が彼女の慈悲心をさらに篤くしていったのだろうか。どんな人に対するまなざしも、あまりにも優しすぎるのである。みきは命の尊さそのものをどうしてこんなに胸に刻んで生きているのか。
 
彼女がいくつもの試練と出会いながら、中山家から逃げ出しもせず、自殺もせず、ただただ黙々と主婦としての役割を果たしていた陰には、人間の命を尊ぶ慈悲心という強い「意志」があったのではないかと思うのである。どんなにひどいと思われる状況や待遇も、周囲の人間に対する深い慈悲心あってこそ、黙々とただただ自分の役割を果たすことができたのではなかろうか。

だからこそ中山みき、という単なる一女性に奇跡は起こったのだろう。


後半は徐々に神として生きていく姿が描かれている。そこには当然のように、彼女自身の持つ慈悲心とは相容れない人間社会の律、という問題が対峙している。「神」対「律」、という対峙構造は、彼女をそれまで苦しめてきた社会構造そのものであったのだろう。

人生の前半で、彼女は自らの慈悲心という「意志」で、あらゆる理不尽な状況を耐え抜いてきた。耐えていた、という我慢すら感じていなかったかもしれない。それこそ彼女の慈悲心という「意志」は揺るぎないものであったように感じられる。だからこそ、彼女は官憲の弾圧も何もかも、神の前では取るに足らない問題として流すことが出来たのだろう。もちろん、それを彼女に降りてきた神の力、ということもできる。

しかし、周囲の人間はそうではない。人間が本来持っている一番美しい部分、自らの「意志」というものを行使せずに、権力構造の中に自ら組み込まれていってしまう。いや、人間は自らの本当の「意志」自体が見えなくなってしまっているといっていい。自らの「意志」と信じ込んでいるものの大半は、権力に対する迎合で、人間の奥底に本当に存在する「意志」というものに、みきの周囲にいる人間でさえも最後まで気づかなかった。

それを悲劇ともとれるし、人間はだからこそ面白い存在だ、ということもできる。翻弄される周囲とあくまでも揺らぎ無いみきの姿は対照的で興味深い。

ともかく、当時の状況に最も適した形でみきは、神としての生き方を示そうとする。常に彼女は周囲の人間に対して最善と思われる選択をしている。しかし、人間はそれをなかなか理解できない。その懸隔は埋まる気配さえない。それはみきの最期の時に関してさえもそうなのだ。


彼女が示したかったことはどんなことであろうか。それは凡人の私には簡単にはわからないことである。しかし、以下のことだけは考えることができた。

人間は尊いものである。本当に尊い存在である。それはいわゆる神が宿った人間であろうがなかろうが、人間にはすべての人に、真に神性が宿っている。それを一主婦が人生をかけて証明してみせた、という偉大な記録がこの「教祖様」である。そして、その偉大さはみきが何気なく生きてきた平々凡々と思われる日常にこそあるのだということを、筆者は丹念に一つ一つの事柄を丁寧に拾い上げていくことによって見事に証明してみせた。

しかし、様々な思惑や「律」に縛られている人間たちにはなかなか理解できない。常に保身、所有欲、名誉欲など、あらゆるものに縛られて、日常の生きている喜びに蓋をして、自ら恐怖を探し出して毎日を過ごしている。

一般に奇跡と呼ばれるみきのいくつもの行為も、彼女にとって実は日常の一部分であったろう。「神」が示した特別な力は、実は凡庸な人間たちを驚かすためだけであり、かわいい人間たちが求めるからだけであって、みきにとって本当に大きい部分ではなかったように思える。

それは毎日の彼女の生活、神として生きている生活そのものが奇跡であり、喜びに満ち溢れた生活の延長線上にある。みきも含めた一人一人のどんな人間も、一般に言われている良い人も悪い人も信仰のある人もそれを取り締まる官憲も人間は本来すべて、互いに集い協力して、笑ったり踊ったりしながら暮らせる能力を持った存在である。

彼女は誰も裁いていない。自らを裁いた人間でさえも。人間は自ら、自分の人生を選択していくだけである。誰かが裁かなくても過ちは自らの手で摘み取るようになっているからだ。その大きな法則の下すべてが運行していること自体がすでに奇跡であり、人間はその中の一部に過ぎない、ということであろう。人間が社会の「律」だなんだと騒いでも、すべては大きな「神」の手中にある。

みきはそんなすべての人間の存在を認め、最後まで誰よりもいとおしんでいたに違いない。「神」である彼女の偉大な慈悲心には限りが無いように思われる。


2006年4月20日 鈴木一花

 

(2006.04.29掲載)

 

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