芹沢光治良、公会堂来訪?
大正11〜13年(1922〜1924年)芹沢光治良が26〜28歳のころ、役所の仕事で公会堂を訪れている(?)ようです。

「男の生涯」より
(前略)
石黒さんのように博学な、立派な課長のもとで、立案される場合には、そうしたことは恐らく杞憂であろうが、他にちがった心配がある。日本の農村、農民を愛することが激しければ、農民の代表者になっても、日本という広い観点を忘れてしまう憂いがある。特に、学校を出たばかりの若い人々には、急に専門的に一つのことをさせられると、他のことを考える余裕がなく、日本には農民ばかりで、小商人も労働者もないような考え方を、自然にしてしまう。そればかりではない。大学を出て日本の将来を背負ったようなすさまじい考え方をする者が、多く官吏になるので、一般に仕事をしようとあせる。官吏の仕事は、性質上行政事務であるから、取締るということに手取り早く考える。すると、規則や法律をつくることになるが、それにともなって、必ず予算がとれて、人員を増員することができる。そのうちには、仕事をしたいという慾望は、そのことが人民の方にはどう影響するか考えなくて、予算をとるという風に変形してしまう。予算をとることの巧みな者が、行政官として腕のある者だと評せられている実情が、そうした事情をよく説明している。国家に政治家がいなくて、行政官が銘々政治を行うようになると、国民というものがなくなって、国家は利益関係の反するブロックの集団になりはしないだろうか――こんなことを、僕は漠然と考えたが。
こう書くと、僕が役所で張り切って仕事をしたようにもなるが、時々はなまけもした。さきにも云ったように、僕は農業組合について調べようと計画を樹てた。小平さんのヨーロッパから持ち帰った資料のなかから、ヨーロッパの農業組合に関するものを調べた。そして、フランスの農業に非常に関心を持ち、フランスの組合運動について研究してみようと思って役所では熱心に読書した。時々、小作争議地へ出張する場合にも、組合運動に注意した。当時、日本でもなかなか農業組合の活動が活溌で、ある時など、大阪の公会堂で、全国農民組合大会が開催せられて、その監督のために出張を命ぜられたことがあるが、会場へ出向いてみると、大会の議長席には、旧友の小岩井浄君が就いていた。大会の空気はたいへん厳しいもので、官庁側の監督者として出席しているのが、肩身せまいほどであった。一高時代からお互いに親友であり、大学時代には数人で研究会をもって勉強に協力した者が相対する陣営に立つような感慨を持ったのも、その当時の社会状勢で、顧みれば、面白い辛い思い出である。
(後略)
『芹沢光治良文学館(4)』p104〜5 に収録

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