― しあわせへの道しるべ ―

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あたらしい世紀をいかに生きるか?―― ひとりの女性の自己実現の物語 ―― 『源氏物語』
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あたらしい世紀をいかに生きるか?
ひとりの女性の自己実現の物語 ―『源氏物語』

2000年11月


『紫マンダラ ― 源氏物語の構図』※を読んで

※河合隼雄(小学館、2000年)

○○様

おはようございます。とりあえず、書き出しは10月22日、朝6:15です。いつ送信できるか、わかりません。

(10月28日、再開を試みましたが、やっぱり何か「熱い感じ」を忘れてしまっています。うまく思い出せるか?)

8月28日に『紫マンダラ』のことを教えていただき、手に入れたのは約1ヵ月後の9月20日、一応読了したのが昨日でした。初刷発行は7月10日でしたね。

そもそも読書時間など大してありませんし、途中道草もしましたが、結構骨が折れました。読み始めは「久しぶりにエキサイティングな内容やな」なんて読み始めたのですが……

大変な労作というか、内容が濃くて、その上原文(源氏物語)を読んだことがない、というのが大きな理由です。しかし、やっぱり面白かった。

河合先生の著作の多くは、こんな風に私には読み流されています。昔話や児童文学をはじめとする様々な「おはなし」に対していろいろと論評されており、結構フォローしているのですが、だいたいいつもこんな読み方です。原文を読んでいた試しはほとんどない。

「そういうのがあるんや」、とか文中紹介されるあらすじからたどっていくのです。かなりええ加減な読み方だと思いますが、それでも「読んでよかった」という実感だけはたいがい残ります。


ところで、日経の書評はどんなだったんでしょうね。ビジネスマン必読の新聞ですが、私は読んでいません(^_^; だから、芹沢先生関連のものも読んでないのですが、これは東京の愛好会からコピーが送られてくると思います。


さて、私の感想というか、まとめみたいなのを書いてみたいと思うのですが、○○さんは読まれましたか?


昨日調べたんですが、昨年(1999年)11月25日、<『源氏物語』のミレニアム──世界に誇る先駆性を読む>と題する小文をすでに発表しておられ(産経新聞・夕刊「縦糸 横糸」)、もちろんそのとき私は読みました(研究そのものは94年からはじめられ、『紫マンダラ』までに専門誌で何回か発表されてるようです)。

もっとも、「へぇーん、フゥ〜ン、そうなんか」くらいのものだったのですが、今回はもう少し理解が進みました。

源氏の頃からそうだったのでしょう。女性は、男性とのかかわりのなかで生きてきた(母、妻、娼、娘として)。あるいは生きてござるを得なかった。しかし、女性だって男性とのかかわりオンリーで生きるのではなく、<「一個の」「生身の」「自分」が「生きる」とはどういうことか?> そういう紫式部の心の遍歴を大成したのが『源氏物語』である、というのが河合先生の主張の大きな特徴です。

紫式部が女性として、苦労しながら「自分」という存在を深めていくのですが、その過程ひとつひとつにおいて自分を象徴するのが、物語に登場する女性たちで、これらの登場人物すべてが彼女の分身である、というのです。

また、そもそもそれらの分身を統合的に物語ろうとするのに、光源氏という男性を必要としただけで、そういう意味で、彼はたんなる便利屋にすぎない(物語の展開とともに少しかわるのですが)。もちろん彼が物語の主人公なのではないのです。したがって、彼が「うそつきで女たらしでけしからん」(谷崎潤一郎)という批判もあたらないのではないか、というのが河合先生の考えです。最近新訳をだした瀬戸内寂聴もそのような立場をとっているようです。

ところで、「物語」について。

「人はなぜ死ぬのか」「どうして私の目の前に山が存在するのか」という根源的な問いに対して、それらについてのルーツを明らかにし、それらに基礎を与える役割を神話がもっている、といわれます。

しかし、神話は民族などの特定の集団において共有されるもので、テクノロジーの恩恵を受けている(溺れている?)現代人には、なかなか神話の共有はむずかしい。それでは、自分の存在の「基礎づけ」は何によっておこなわれるか。それが物語です。

現在、私たちは科学をきわめ、その産物である技術によって、未曾有のゆたかさを享受しています。その背景に個、近代自我の確立というものがあったことはほぼ通説です。その近代自我の確立の基礎づけとなった物語は何だったでしょう。

英雄物語です。王子が、命をかけて怪物と戦い、勝利し、魔法などにかけられ危機に瀕していたお姫様を救い出し、結婚してめでたし、めだたし。というやつです。

これは、男性であれ女性であれ、子供が大人になっていく段階での内面的な世界を象徴するものと考えられます。つまり無意識(母なるもの)という捉えどころのないもの(怪物)に対して、意識的に挑みかけることによって、自立性・完全性を獲得するという図式です。

こういう物語が世界中を席巻してしまった。局所的に見ていくと席巻しきってはいないけれど、少なくとも「遅れている」「発展途上だ」などという感覚を自らは何とはなしに持ち、あるいは外からはそのように評価されてしまう。

自我の確立は、男にとっても、女にとっても大事なことでした。しかしその自我像というのは、男にとっても女にとっても「男性の英雄像」だったのです。

ここが大きな盲点で、このような矛盾、無理がもうどうしようもないところまできてしまったのが、「いま」ではないでしょうか。ユング派の分析家シルヴィア・ペレラは次のように指摘しています。

社会的に成功を収めた女性である私たち(つまり、男性本位の社会にうまく適応している女性)は、私たちのものであった豊かな女性の本能やエネルギー・パターンを拒絶してきました。文化もこれをことごとくもぎ取り、傷つけてきました(p68)

また、同じユング派のエーリッヒ・ノイマンは、「西洋における近代自我の発生は、世界の精神史においても極めて特異なことだ」と指摘しています。(p60)

女性が男性の英雄を理想とすることはおかしいじゃないか、ということでもあると思うのですが、実はいまからおよそ千年まえに女性による女性自身の物語が日本にあった。それが紫式部の『源氏物語』だというのです。

よく知られているように、ヨーロッパで最初の小説とされるボッカチオの『デカメロン』に先立つこと、なんと三百数十年。「世界に誇る先駆性」と河合先生が評価される所以です(まさか、これを言うために2000円札に紫式部が登場したのか?)。

紫式部が「個としての女性」のイメージに、ただひたすら受動的な態度を付与したことは特筆に値する、といっておられます。しかし、この女性(浮舟=式部?)、自殺未遂により大きな転機を迎えます。そして、その後到達する境地は「宗教的」と呼ぶべき、と河合先生は仰います。

やっぱり、いくら科学技術を究めても、最終的には「宗教」なんですね、と思いきや、「宗教が特定の派として組織をもち、男性がそれにかかわってくるときは、彼女の立つ地点の支えとなるものではないことを彼女は知らされた」と明言しておられます。

このような個としての女性の物語は、男性の英雄物語が近代において「男女にかかわらず」意味をもったように、現代においては「男女にかかわらず」意味をもつと思う、とも。

そして、締めくくり。

ここに紫式部が大きい努力を払って描いた「個としての女性」が、もし同様に「個としての男性」として生きる人物に会ったとき、どのような関係が生じるのだろうか。おそらくこの課題は、紫式部以後、約千年が経過した今日、次の世紀へと持ち越されるのではないだろうか。


私も、遠い将来、ぜひとも『源氏物語』を読んでみたいと思うようになりました。

(文中、河合先生以外の引用もすべて『紫マンダラ』からの孫引きです。)

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※ リンクがはずれている箇所を発見されたら、ご一報くだされば幸いです。(2004.11.04)